2009年11月 4日 (水)

■【地域イベント】「第6回ありがとう!可部の町めぐり」に主催団体の一員として参加しました(広島市安佐北区「可部カラスの会」)

◆江戸時代、出雲・石見地方への交通の要衝であった可部旧街道沿い及び旧街道に並行した小路(通称:花の散歩道)沿いの町家、寺社、記念碑等47か所を見て・食べて回る町めぐりは、雨天にもかかわらず1,500人の人出で賑わいました
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   可部の古い町並みや可部を愛し誇りに思う町民が手作りで町並みを飾る地域イベント「第6回可部の町めぐり」が、11月1日(日)午前10時~午後3時の間、可部旧街道と花の散歩道(JR可部駅から約1.1km)の一帯において開催されました。

   なお、寺社、石碑などの案内は地元の文教女子大生をはじめ地元の人が案内しました。※各写真をクリックすると画面が拡大します。

    私が所属する、まちづくり市民グループ「可部カラスの会」(当会と略する)は第1回イベントから参加しており、今年は旧街道町並みの古商家「可笑屋」(かわらや)2階を借切って、午前、午後の2回に渡り、紙芝居講談を公演しました。
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   福祉系のNPO法人「ウィングかべ」が運営する「可笑屋」は、築150年の商家を改装して軽食喫茶コーナー、おからせんべいや手作りシフォンケーキ、「可部のまち絵葉書」等を販売しています。

   また2階建ての和室、洋室は町民のために低廉な有料コミュニティサロンとして開放しており、同好者の食事会や歌声喫茶あるいはプロの落語家を招いて落語会など、多様な活用が図られております。
   当会も定例会のため、毎月第2、第4水曜日午後7時から借りています。
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   今年の町めぐりイベントで、可笑屋は飲食・喫茶部門でカレーライス、うどん、古代米定食、お寿司、ラムネなどを販売しました。 当会が助言して開発したおからを材料にしたせんべい「かべせん」(可部せんべいとJR可部線に引っ掛けて命名)も販売しました。 雨天の中を大勢の来場者があり、関係者はその応対に大童でした。

113   そのほかに、屋内で協賛者がいろいろな手作り商品販売や写真展、似顔絵書き等が出店しました。一方、屋外駐車場では、当会の紹介で昨年から可笑屋と棚田水車米の販売提携した、広島市に隣接する安芸高田市八千代町上根・向山地域振興会のメンバーが新米の販売促進を行いました。
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   旧街道は道路幅が狭い上に町内を並行して通る国道54号線の信号が多いため、信号が1か所しかない旧街道に流入する車で混雑します。 そのため、旧街道は歩行者にとって歩行および道路横断は危険が伴う状態です。 写真は可笑屋2階の丸窓から旧街道の交通混雑を眺めた光景です。

 さて、当会では当日可笑屋2階で、紙芝居講談「南原屋(なばらや)贋金造り事件」を、午前1回、午後1回計2回に渡って、可部カラスの会一座により公演しました。
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   当日は当会のメンバーが、町めぐりの案内役や他参加団体のイベントの応援に狩り出されて、紙芝居講談のスタッフは講談師2名、司会・進行1名、紙芝居黒子(私は黒子の一人を志望)2名の計5名となりましたが、2回の公演を何とか終了しました。
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   2階の紙芝居講談会場では、当会会員が水道の蛇口を鋳造して造った「天保通宝」の模造品を展示して、来場の皆さんに直に手で触れていただきました。

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111 一方、1階の可笑屋玄関口では、当会作成の『南原屋贋金造り事件』や『わがまち可部』の小冊子を販売しました。※2冊の本の内容等については、「可部カラスの会」のホームページをご覧ください。
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   可笑屋の裏側には、ご覧のように白壁の町並みがまだ残っています。

《ご案内》 
 当日、私は紙芝居講談「南原屋贋金造り事件」の公演にかかりきりでしたので、当日のイベント全体の状況については写真を撮っていません。
 ご関心のある方は「可部カラスの会」ホームページや「第6回可部の町めぐり」のキーワードでご検索ください。

  


 

   

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2009年6月 1日 (月)

■【地域イベント】'09年度も広島市可部地区の初夏の風物詩「高松山大文字まつり」に、まちづくり市民グループが山麓の根谷川両岸土手に手製灯りを並べて「灯りまつり」を“勝手連”で開催(可部カラスの会)

◆かつての鋳物の町・可部に289年間連綿と続く高松山大文字まつりは、火災予防のため京都から「鎮火の神」を勧請したことが由来('08年度の灯りまつりブログを一部修正の上再掲)
  私が現在住んでいる可部の町では、根谷川の傍にそびえる高松山(339m)の高松神社の例祭で、頂上近くの南斜面へ「大」の文字が夜空に浮かぶ献灯神事「高松山大文字まつり」が、初夏を告げる年中行事となっています。

  そもそも高松山大文字の由来は、「享保5年(1720年)の大火で、可部の市街地を広く焼失した。 そこで、京都へ使いを出して鎮火の神・愛宕山神社の分霊を受け、高松山山頂付近へ愛宕神社(高松神社、高松権現ともいう)を勧請した。 

京都の大文字に倣って、神社下の松から松へ108のちょうちんを付け、ローソクに点火し、大の字の献灯を始めたという」と伝えられています(出典:『可部町史』ほか)。

   高松山大文字まつりは、当初の提灯を用いた献灯から火災予防などの理由で、1960年代半ばから電灯に切り替えられました。  恒例5月最終土・日開催のまつりの2日間、高松山大文字保存会のメンバーが午後7時に75個の電球を一斉に点灯すると、高松山山頂付近に縦80m、横45mの「大」の字が夜空に浮かび上がります。

  しかし、可部の初夏を告げる高松山大文字まつりも、今では参集者が少なくなっています。
  近年、催事は初日午後に山麓の神社での福引と山頂の福引、2日目午後に山麓の神社での餅まき、福引(今年の場合)だけです。 
  周辺の地元商店も土、日はほとんど休業し、露店も数軒だけ出店と少なくなりました。 
  
  そこで、まちづくり市民グループ「可部カラスの会」(私もスタッフの一員)では、3年前から高松山大文字まつりに併せて、初日の夜に高松山山麓の根ノ谷川両岸土手に、ローソク立てを各108基(実際は賛同する住民からの持ち込みもあり数量は年々増えている)を並べてローソクを灯して、“勝手連”的に「灯りまつり」を開催し大文字まつりの魅力づくりを図ろうとしています。

◆’09年度灯りまつり開催の結果報告
  今年は5月30日(土)夜に開催予定でしたが、当日夕方の土砂降り降雨のため31日(日)に延期しました。
初日(30日)はせっかく早くから準備したローソク台及びローソクを、夕方の降雨でびしょ濡れにしてしまいました。 
 途中で雨が止んでもローソクの芯が濡れて火が着かず、やむなく中止して翌31日に延期しました。

  31日は幸い天候も回復し、夕暮れともなると家族連れやグループが、三々五々根ノ谷川両岸土手へ繰り出して、夕闇の両岸土手に点々と連なるローソクの灯りとその後方にそびえる高松山山頂に輝く「大文字」の灯りのコントラストに見入っていました。

  年々「灯りまつり」への賛同者が増えてきて、200本以上のローソークの着火時にグループで着火に協力していただいたり、あるいはローソク台(ペットボトルを風防型容器に改造やガラス容器)の側面へ絵やメッセージを記入して持参される家族連れなど、さまざまな協力をしていただいています。

  今年も、主催する可部カラスの会のユニフォーム(会名入り作務衣)を着て会場内を回っていますと、
 ・ 「昨夜は降雨で中止になり大変でしたね」
 ・ 「最近、町内に越してきたので、今夜初めて見に来ました」
 ・ 「2年前にローソク台(ガラス容器)側面に家族でメッセージを書いたので、今年もその容器へ対面に来ました」
 ・ 「山頂の大文字の灯は遠くからでも見えますが、灯りまつりの灯は川岸に来なければ見えないのでやって来ました」
など、大勢の皆さんから声をかけていただきました。 

《当日の写真》(撮影:筆者)
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《季節の花の俳句》【サツキツツジ】(ツツジ科)
 満開のさつき水面に照るごとし  杉田 久女 
〔NHK花言葉〕協力が得られる

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2008年7月30日 (水)

■【伝統行事】“チンチリビツ”の呼び名で知られ、世界遺産宮島の厳島神社管弦祭に因んだ可部明神社夏祭りに、“お楽しみ広場”をNPO仲間で運営し好評(可部カラスの会)

◆かつての出雲石見街道(通称:雲石街道)可部宿は、真夏の夕暮れと共に明神社一帯が5時間半の歩行者天国へ(広島市安佐北区可部町)
  可部町下の浜にはかつて栄えた太田川舟運の守護神の明神社(注1)があります。

  例年、宮島の管弦祭(注2)の開催時期にほぼ合わせて、今年で249年の長い歴史を誇る明神社夏の大祭(近年、7月第4土曜日に開催)は、俗に「チンチりビツ」(注3)と呼ばれ、地域住民だけでなく近郷、近在の人たちにも親しまれています。

  私が所属するまちづくり市民グループ「可部カラスの会」では、明神社大祭事務局から依頼を受けて、今夏(7月26日)も当会がJR可部駅前特設広場における“お楽しみ広場”の運営に当りました。 

  幸いにして、夏の大祭に従来から出店しているNPO法人ウイングかべ、NPO法人つくし工房および当会の3団体に加えて、今年新たに参加したNPO法人かべ工房村の計4団体が中心となり、その他のグループ等に呼びかけ、“来場者に楽しく、出店者にも楽しい広場づくり”を目指して、午後6時から午後9時までの3時間出店しました。

 以下の写真は、イベント運営の合間に私が撮ったお楽しみ広場や明神社前のメイン会場等でのスナップです。  6時台から7時台の時間帯です。  盛況は8・9時台でしたが、この時間帯は運営に追われて写真が撮れませんでした。 

 どうぞ、会場の熱気溢れる雰囲気の一端を写真でご覧ください。 ※写真はクリックして拡大できます。

08_001 夏の大祭のチラシです。 お楽しみ広場の開催も案内。


027 【大人による模範の餅つき、後は希望する大人、子どもが飛び入り参加】(NPO法人かべ工房村)

031  【子どもが参加して餅を丸め、その場で搗き立てを食べる】(NPO法人かべ工房村)

008 【近くの根谷川の川向うの山に建設中の公園の紹介】(寺山にプレイパークをつくろう会)

039 【森本マリアのブラックライト紙芝居“光る絵を見よう”】

038 【田島おじさんのリサイクル工作】

034  【笹竹七夕飾りへ願い事の短冊を結び付けて、最後に明神社へ祈願】(可部カラスの会)

007 【折り紙細工で遊ぶ】(可部カラスの会)

012 【ゲームに興じる】(NPO法人ウインクかべ)

030 【お楽しみ広場休憩所】(NPO法人つくし工房前)

017 【露店風景】(明神社前)


018 【広島文教女子高の太鼓演奏】(メイン会場)

019_2 【太鼓演奏の聴衆】(メイン会場) 

なお、JR可部駅西口イベント広場では、昼間の時間帯に可部カラスの会メンバーが井戸水を利用してコーヒーを沸かし、来場者に振舞いました。 

《追補》
  「可部カラスの会」のホームページにも、当日のイベント写真が掲載してあります。併せてご覧ください。
 
注1:明神社 
  祭神は厳島(安芸の宮島)の厳島神社の宗像三女神のうちの市杵島姫命を祀ってある。 昭和の初めまでは、神社前が太田川舟運の川船発着の船入堀として繁栄していた。  現在は公園になっていて、夏の大祭のメイン会場になっている。

  当時の祭礼は、管弦船を船入堀に浮べたり、各家の前に提灯をぶらさげ献燈したり、県内各地にみられる「おかんげんさん」と同様のものであった。(出典:『可部町史』ほか)

注2:厳島神社管弦祭   
  ・と き 毎年旧暦6月17日(2008年は7月19日)  ・ところ 厳島神社および周辺

  古くから都では、池や河川に船を浮かべ、優雅な「管弦の遊び」をしていた。  厳島神社を造営した平清盛はこの風習を厳島神社に移し、遊びではなく神様をお慰めする神事として執り行うようになった。

  従って、河川でなく瀬戸の海を舞台に雄大に繰り広げられる、ダイナミックな平安絵巻を思わせる、海に囲まれた宮島ならではの優雅な祭りである。

なお、管弦祭の日時を旧暦の6月17日としたのは、海上の神事であるから潮の干満を考慮したことによる。

 ※管弦とは三管(笛、笙、茄)、三鼓(太鼓、鞨鼓、鉦鼓)、三弦(和琴、琵琶、琴)を用いて合奏する音楽。(出典:宮島町ホームページ)

注3:チンチリビツ
  又の名をチンチロビッツとも言う由来は、「三味線に鉦、合いの手と華やかな祭りムードの中から、自然発生的に言われるようになったものであろう」(下野岩太氏)と伝わっている。 (出典:『かべの町かど(2)浜の明神』中国新聞ファミリー可部)

ふるさとの地名俳句》【宮島管弦祭】
  管弦に舟の八重垣十七夜  杉山 赤富士 

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2008年6月17日 (火)

■【地域イベント】広島市可部地区の初夏の風物詩「'08年度高松山大文字まつり」に、まちづくり市民グループが麓の根谷川両岸に手製灯りを並べた「灯りまつり」で“花を添える”(可部カラスの会)

◆かつての“鋳物の町可部”に288年連綿と続く高松山大文字まつりは、京都から「鎮火の神」を勧請したことが由来
  われわれ可部の住民にとって、根谷川の傍にそびえる高松山(標高339m)の高松神社の例祭で、頂上近くの南斜面へ「大」の文字が夜空に浮かぶ献灯神事「高松山大文字まつり」は、初夏の訪れを告げる年中行事となっています。

  そもそも高松山大文字の由来は、「享保5年(1720年)の大火で、可部は町の市街地を広く失った(当時、可部には火を用いる伝統の鋳物産業が発展しており、町家も軒を連ねて密集し、再び火を出しては大変、と対策に知恵を絞ったようです)。 

  そこで、木原屋の新屋は京都へ行き、(鎮)火の神愛宕山神社の分霊を受け、高松山山頂付近へ愛宕神社(高松神社、高松権現ともいう)を勧請した。  京都の大文字にならって、神社の下山の松から松へ、108の提灯をつけ、ローソクに点火し、大の字の献灯を始めたという」と伝えられています(『可部町史』ほか)。

   当初提灯を用いた献灯は1964年から火災予防、経費節減などの理由で電灯に切替えられました。  現在は恒例の5月最終土曜、日曜の2日間、高松山大文字保存会メンバーが午後7時に75個の電球を一斉に点灯すると、高松山山頂付近に縦80m、横45mの「大」の字が夜空に浮かび上がります。

  なお、「大文字焼き」という名前で全国に広く知られている京都のお盆の伝統行事は正しくは「五山の送り火」と呼ばれ、お盆の先祖供養の一般信仰と結びついています。   一方、高松山大文字はこの献灯神事が始められて以来、この近郊に火災が発生しても小火で済んだのは、高松神社の神徳によるものと今に語り継がれています。
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まちづくり市民グループ「可部カラスの会」(私もスタッフの一員)は、2年前から高松山大文まつり開催に併せて、“勝手連”的に高松山麓の根谷川両岸に手製のローソク灯りを片岸108基、両岸合計216基を並べて、住民やわれわれメンバーが根谷川両岸のローソクの灯りと高松山大文字の電灯の灯りの両方を眺めて楽しむ光の空間を演出しました。  

  幸いにして、初年度から手製ローソク灯りの献灯の申し出が住民からあったり、夕闇の根谷川両岸を浴衣で散策しながら足元のローソクの炎を眺めたり、高松山上に輝く大文字の灯りが風に揺らぐ様を楽しむ人々が次第に増えてきました。
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しかし、3年目の今年は天気予報が当日の雨天を予報しており、残念ながら点灯開始時刻の午後7時になっても雨が止まない最悪の状況でした。  今年は事前に手製ローソク立てにアルミ皿を傘代りに被せて、万一の雨対策を施しましたがやはり雨は降り止まず、雨天の中での灯りまつりの続行となりました。
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今年は雨の中の両岸216基のローソク立ての配置と傘被せ、ローソクの点灯や容器の後片付け等に、約10名のボランティアの方々がわれわれスタッフの応援をしていただき、また雨天にもかかわらず灯りまつりの鑑賞に訪れていただいた方々もあり、スタッフの一員としてこの場を借りて御礼申し上げます。

   雨天のためにやや不鮮明ですが、当夜の写真(可部カラスの会提供)を併せて掲載します。写真をクリックし、拡大してご覧ください。

《ふるさとの地名俳句》【京都府・愛宕山】 ※本編では鎮火の神・愛宕山神社のある愛宕山(標高924m)に関連した句を掲載しました。
愛宕山注連にも樹氷及びけり  巽 恵津子


      

  
  

  


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2008年4月28日 (月)

■【山陰の小京都】まちづくり先進地学習に中心市街地再生の“山陰の小京都”倉吉市を訪ねる(可部カラスの会)

<◆商都として栄えた白壁土蔵群が当時の面影を残す、歴史と文化のまちの活性化事業(倉吉市)
▼はじめに  P4130006
4月中旬の日曜日、私の所属するまちづくり市民グループ「可部カラスの会」の恒例行事であるまちづくり先進地学習で、鳥取県中部に位置する倉吉市(人口約52,000人)の市街地活性化事業を学びに、総勢24名(他団体含む)の男女が貸切バスで訪ねました。 
  
マイカーで可部から倉吉市までは、中国道・米子道を経由して約3時間半程度かかります。 長年、私は倉吉市へ仕事や近隣の仕事の帰りに立ち寄っています(注①)。

   バスは途中の休憩時間を短縮して、予定時間より少し早めに倉吉市に到着しました。  早速、休む間もなく市内の見学です。  

▼倉吉市内の主な見学場所
  当日の主な見学場所は次のとおりでした。
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〔大阪の豪商・淀屋の倉吉における拠点「淀屋牧田家」の復元工事現場の見学〕
  案内役は商業まちづくり団体「あきない中心倉」(注②)の豊田会長他数名、ボランティアガイド1名及びまちづくりに関わっている市役所職員、商工会議所職員各1名の皆さんでした。 

  長年、倉吉市にたびたび立ち寄っている私も、ガイド付きで赤瓦・土蔵群の打吹地区などの見学は初めてでした。

  ボランテイァガイドのご案内で、江戸時代の大阪の豪商・淀屋(注③)における秘密拠点であった「淀屋牧田家」の復元工事現場を見学しました。  現在、淀屋牧田家は復元工事中でした。 
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〔大阪の豪商・淀屋と倉吉・淀屋牧田家にまつわる講談を聴く〕
  当日、「倉吉談語の会」会員男女2名の方から「淀屋の光と影」の演題で講談調のお話を聴きました。  当カラスの会員には、大阪と倉吉の両淀屋の歴史がよく分かり好評でした(写真は講談前の会場説明)。

P4130019 〔昼食を摂る〕 
  昼食はあきない中心倉がお勧めの町家食事処「清水庵」で「もちしゃぶ鍋」をいただきました。  新しい郷土料理として人気があるようで店内は満員状態。   食後に店外へ出ると10人近い人々が入店待ちでした。  
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 〔商店街の視察〕
  白壁土蔵群の古い土蔵を改造して作られた施設が「赤瓦」。  '98年に1号、2号、3号館がオープンして以来続々と個性的な店が誕生中です。  新規起業者の「チャレンジショップ」や特産品センターなど、ただ観るだけでなく「食べる・買う・休む・体験する」などの機能を加えて、滞在時間の延長やリピーターの獲得に努力されています。
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視察資料では「年間観光入込客数(土蔵群周辺)を30万人('04年)から50万人('10年)へ」と記してありました。

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 〔昭和レトロ展の鑑賞〕’08年4月22日~5月11日(会期中無休)
  倉吉博物館で「昭和レトロ展ー情景王・山田卓司の世界」を観ました。  加えて、倉吉市にも「倉吉(くらよし)レトロまちかど博物館」と題して、白壁土蔵群周辺63軒がとっておきのお宝や家に伝わる伝統の品々を特別公開しており、時宜に適した展覧会でした。
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このほかにも「福の神にあえる街」(市内在住3人の仏師による約40体の「福の神」と称する木像を設置)として、「福の神スタンプラリー」を始め街角ギャラリー、食談会、お宝市等の独自企画の開催をしています。

▼終わりに  
  視察参加者からは「あきない中心倉の方々の誠実な説明に感謝」、「地域住民自らが動くことが地域おこしの原点と感じた」等々、帰りのバスの中で多くの感想が述べられました。  現地の関係者には大変お世話になりました。  早朝から夜間にかけてハードな旅程でしたが有意義な1日でした。 (完)

《注①私と倉吉市との関り》    
  私は倉吉市へ37、36年前頃に当時所属していた経営コンサルタント会社から、企業を対象の労務管理講習会の講師として数回訪れたことがあります。  

  その際、主催した商工団体の常勤役員や自治体出先機関の所長が私の出身大学の先輩にあたり、初対面の際は講習終了後に隣町(当時)の関金温泉で歓待していただいた思い出があります。

  その後、道路網が整備された1990年代以降の中国山地での講演、講習等へはマイカーを運転して出掛けるようになり、最初は軽4輪駆動車に乗って好んで山道を走破していました。

  11年前からは宿泊可能なキャンピングカー仕様(乗員6名、就寝2名)に改造の1BOX4輪駆動車で、倉吉市を経由して鳥取県内市町村へも特産品開発、道の駅開設、まちづくり指導などで月数回出掛けるようになりました。  

  そのため、倉吉市は先を急ぐ往路は通過し、仕事が終わって帰る復路に市内で早めの夕食(当時は倉吉市を過ぎると美味しい食事にありつけなかったため)を摂ることがよくありました。  近年、春~秋の季節は白壁土蔵群の街並みを散策したりする時間的余裕もあり、私にとって倉吉市は仕事から帰りの息抜き場所でした。

《注②あきない中心倉》
  '02年に倉吉市の中心市街地活性化に向け、成徳地区(旧市街地)の商業者や地域の人たちで発足した、まちづくりの任意団体です。  現在は、会員21人が福の神、商店開発、商品開発、歴史研究の4委員会で、それぞれ活動中です。

《注③大阪の豪商・淀屋》  
   ご承知の方もあるように、大阪に米市を開き、自費で淀屋橋をかけたりして、北前航路や蔵米販売で大阪経済を支配した豪商・淀屋(前期淀屋)は、その政治力を恐れていた徳川幕府によって5代目当主の岡本広当のときに「町人の分限を超えたぜいたくぶり」との理由で、家屋敷、家財すべてを没収された上、大阪を追放されました。 

  本事件に関連して、後世の歴史研究家は「4代目当主の重当はいずれ幕府からの圧力がかかることを見越して、事件の35年も前から倉吉市へ秘密裏に拠点(当初は米屋)を開き、牧田仁左衛門を派遣した」と説明しています。

  倉吉市の淀屋牧田家は「稲扱千刃」(いなこきせんば=稲穂や麦穂を効率的に脱穀する当時としては画期的な農具)の全国独占製造・販売を始め、木綿、かすりなどを米の販売ルートに載せて儲けたそうです。

  その後、事件から59年後に淀屋牧田の清兵衛が大阪に「淀屋」(後期淀屋)を立派に再興しました。  なお、幕末に淀屋は8代目が店を閉じて討幕運動に参加し、自分の生活費として財産の1割を残し、残り9割は朝廷に献金したエピソードが伝わっています。  

 《出典》倉吉市視察資料、「淀屋研究会」資料

《ふるさとの地名俳句》【白壁土蔵群】
 如月(きさらぎ)の土蔵に籠り仏彫る  神崎 すみれ

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2007年12月31日 (月)

【伝統行事再現】可部地区の町家古民家に、昔ながらの“商売繁盛を願うカシの木門松”を再現して3年目(可部カラスの会ほか)

◆今年は明治初期の特徴をもった切妻造りの厨子2階平入り町家古民家に飾り付け(広島市安佐北区)
▼初めて本ブログをご覧の方へ、可部地区の沿革と織物産業のご案内
  私の“第3のふるさと”である可部地区(当地区と略する)は中世に熊谷氏の築いた高松城の城下町として発展し、その後雲石(出雲・石見)街道の要衝として太田川舟運の中継基地となり、陰陽を結ぶ物流拠点として、商工業、宿場町としても繁栄しました。

  昭和初期までの当地区は東西約100m、南北約1kmの細長い町で、街道沿いには黒瓦の軒を連ねた町家造りの商家や造り酒屋、しょうゆ醸造場などが並んで商いをしていました。  現在も旧街道沿いには、昔ながらの切り妻、出格子造りの町家古民家が数軒連なったり、点在して残っています。

古くは天保時代(1830年代)から当地区周辺の農家で農閑期に生産されるようになった山繭糸(注)は、明治になると山繭紬に加工されて有名になりました。  以降、産地問屋などを経由し大阪以西の広範囲な販路が確保され、大正末期までは可部の山繭紬の最盛期だったそうです。

   しかし、大正11年(1923年)頃から山繭紬以外に絹織物、錦織物、絹綿交織りが出現し、主力の大型紡績工場に圧迫され、家内工業としての可部紬は衰退してゆき、昭和初期には滅亡しました。

▼当地区におけるカシの木門松建立の由来 
   当地区では、江戸時代の頃から山繭問屋や呉服店が正月に山繭蛾(ガ)が葉を食べる常緑樹のカシ類の木を切り、商売繁盛を願ってカシの木門松として玄関に立てる風習があったそうです。   
   カシの木門松の周りには家紋の入った幔幕をめぐらせ、まさ土を撒いた道路を竹箒で掃き清めて正月を迎えた、と古老から聞きました。

   その風習も山繭紬の衰退による織物産業の斜陽化や道路に穴を開けて建てるカシの木門松は自動車往来の妨げとなるため、約70年前頃に地区内から姿を消したそうです。 

今年は2日間かかって飾り付ける  
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   去る28日、可部二丁目の旧雲石(出雲、石見)街道沿いの町家古民家(住居としょうゆ醸造場併設)に、今年で連続3年目になるカシの木門松を再現しました。   作業チームは昨年と同じく地元の「かべ夢街道まちづくりの会」とまちづくり市民グループ「可部カラスの会」のメンバーで、私を含めて総勢20名でした。

   しょうゆ醸造場の古民家玄関の門松、幔幕張りは当日完成しましたが、右隣りの造り酒屋民家と道路向かいの民家計2軒の幔幕張りは、都合で30日に8人で2か所の幔幕を張り終えました。   なお、カシの木門松等は1月3日まで展示し、4日に撤去する予定です。

   2日間とも寒気が厳しく、初日は寒風の中での作業、2日目は寒風に加えて作業終了前から雪が降る悪天候の中での作業でした。 

   ※31日夕方から可部地区平野部にも降雪が続いています。 この状況では明日の元旦早朝は一面雪景色でしょう。 

《注:山繭糸》  
   山繭糸は、野山のカシやシイの木の葉を食べて自生する山繭蛾(ガ)が吐き出す、鶯色の美しい繭玉から取れる絹糸です。   当時、山繭糸は絹糸中の最高級品として高く評価されていました。   カシ、シイの木の葉さえあれば、農家の副業としてできるという手軽さがありました。

《追補》 元旦雪景色のカシの木門松(1月1日午後写す)
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《写真提供》可部カラスの会 

《季節の俳句》【門松】
門松や寛文よりの古邸  野風呂

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2007年11月19日 (月)

■【地域活動】住民自治組織が自慢の棚田米を観光水車改造して、精米・試販(八千代町上根・向山地域振興会)

◆地域ぐるみで「参加と協働のまちづくり」へ取り組んで4年目(広島県安芸高田市) 

▼04年度は“地域のお宝”をワークショップ(参加型講習)で再認識からスタート
    上根・向山地域振興会(当振興会と略する)は、R54号(広島市~松江市)沿線沿いの広島市と隣接する安芸高田市との境界に位置する旧八千代町上根・向山地域(私が住んでいる可部町旧街道横の「根の谷川」源流域)の住民組織です。     “平成の大合併”で旧高田郡内の6町が安芸高田市に対等合併した後、新たに市のまちづくりを補完する機能を持った「地域振興会」(注①)に組織変えしたものです。

   当振興会では04年度に地域資源マップづくり事業を実施しました。  この事業については市役所八千代支所の担当者が、仕事で付き合いのあるまちづくり市民グループ「可部カラスの会」(注②)のT会員へ「ワークショップ(参加型研修)の指導をして欲しい」と依頼がありました。  そこで、仕事のため都合がつかないT会員に代わって、同会の一員である私がワークショップのコーディネート役を務めることになりました。 

   支所担当者から要望を聞き可部カラスの会のメンバーと協議して、04年10月、11月、12月の3回に分けてワークショップをお手伝いしました。 
   今回の主な目的は地域の資源をワークショップ手法により住民が総点検し、地域資源マップを作成することによって、地域を再発見する取り組みです。 
   事業内容は当面地域資源マップの作成などですが、中・長期的には地域の将来像の検討などを目標としていました。 
  
   第1回目は地域住民の参加者がワークショップという参加型講習への参加意欲を持ってもらう手段として、私たち可部カラスの会の設立経緯と活動の一端を寸劇で披露し啓発しました。  第2回目は地域の老若男女と共に地域内を視察して、地域資源調査を行いました。  第3回目は最後の仕上げとして地域資源マップづくりを一緒にしながら、地域の将来像について意見交換をしました。  短時間でしたが、少しはお役に立てたようです。  ※紙数の関係で、詳しくは安芸高田市のHP(注③)をご覧ください。

▼05年度は地域資源活性化による参加と協働の取り組み展開  
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   その後の当振興会のまちづくり活動の進展は、休園中のR54号上根峠「潜龍峡ふれあいの里」(注④)を、再開に向けて04年度から住民による花見の会開催、清掃作業をしたり、かつての上根峠上り下りの難所の近道であった「霧切谷」の清掃作業など環境整備を行なってきました。
  
  そして、05年7月潜龍峡ふれあいの里の再オープンイベントにまでこぎつけました。  しかし、 同年9月の台風豪雨により潜龍峡ふれあいの里の井堰が崩壊し、園地内の池や景観用水車が使えないなどの被害が発生して“順風満帆”とはいきませんでした。
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  一方、霧切谷は旧道を活かした遊歩道の整備を続けるなどしました。   このように上根峠の施設、歩道の整備を中心として、地域内に案内板を設置するなど住民主体で行ないました。  ※詳しくは安芸高田市のHP(注③)をご覧ください。

06年5月「霧切谷」遊歩道完成するも、05・06年の台風豪雨による「潜龍峡ふれあいの里」の井堰崩壊復旧工事は難航
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    06年5月、時々連絡を取り合っている安芸高田市役所八千代支所担当者から「昨年から取り組んでいた霧切谷の遊歩道整備が完成したので、今月28日の完成式にぜひお越しを願いたい」と連絡がありました。
    完成式典後は峠頂上の入り口から麓の潜龍峡ふれあいの里入り口まで延長350mの遊歩道歩き初めがあり、その後潜龍峡ふれあいの里で『旬の食材バイキング』による完成パーティを行なう」とのことで、当日可部カラスの会メンバーも参加しました。

   その場で、可部カラスの会メンバーはおよそ1年半ぶりに当振興会のワークショップ参加者と再会し、遊歩道の完成を祝ったり、今後の地域づくりへの抱負を語り合いました。   当日食べた旬の食材バイキングは当振興会が加工した味噌・大豆を使った料理や山菜料理・手づくり料理で構成されておりました。 
 
  当振興会の事務局長を務めておられる女性のKさんとは、大分県が「一村一品運動」を始めて4年目(1983年)から広島県が「広島ふるさと一品運動」を開始し、その後私が「広島ふるさと一品運動コンサルタント」(最初は経営部門、その後マーケティング、開発部門も担当)に委嘱された当初から長い交流がありました。  会食後にKさんへ「アンケートに記しましたが、ぜひ、地産地消料理で都市農村交流を」と申し上げました。
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  しかし、06年9月に当地方(八千代町、可部町含む)を襲った局地的豪雨は、またも道路・河川堤防の決壊、田畑浸水などの被害をもたらしました。
   このような連続被災のため、当地域振興会のハード(施設、設備)事業、ソフト(仕組み、仕掛け)事業とも順調には進まず、事業の進展に遅れが出ました。    ※ 詳しくは安芸高田市のHP(注③)をご覧ください。

▼07年度八千代自慢の棚田米を水車で精米し、試験販売開始へ  
   当振興会内に本郷地区(15戸24人、高齢化率79.1%、現役農家4,5軒)という棚田米の産地があります。
   地区の先人が工夫と努力の末に造り上げた昔の開発の事跡ですが、立地的には上流に人家のない山の清水、水はけの良い砂地、寒暖の差があるなどの環境に恵まれ、米の味が自慢といわれております。

   本郷地区は3年前の第2回目のワークショップの際に、私たち可部カラスのメンバーも当振興会のメンバ-と共に地域資源調査に訪れた場所です。   本郷の棚田は小さな水田が幾重にも並び優雅な曲線を描いています。  四季の移ろいを生き生きと写し出し、いつ訪れても人々に感動を与えてくれます。
   
   なお、潜龍峡ふれあいの里の観光用水車を改造しての水車米(棚田米)づくりは、当初06年度事業計画に上がっていました。
   その棚田米事業が地元業者の協力や市の特色ある地域づくり事業の補助金を受けて、07年春、観光用水車を水車米用に改造し、その後住民たちによる水路など周辺が整備されて、ようやく今年9月に稼動しました。     関係者は都市農村交流による都市生活者向けの棚田米販売と高齢者農業の励みにしたいと意気込んでいます。  
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ただし、今年は主に農家の自家消費米を試験販売用に回しており、先月の中国新聞の報道では試験販売は約180kgの限定出荷(安芸高田市吉田町のショッピングセンター扱いのみ)となったようです。
  ※詳しくは安芸高田市のHP(注③)をご覧ください。
 
   可部カラスの会のメンバーとして、これからも当振興会の活動を応援したいものです。

《注①》地域振興会
  安芸高田市(人口約33,000人)では、住民と行政が知恵を出し、汗を流し、必要があれば金も出す「参加と協働のまちづくり」の中心的役割を担う組織で、市内に32地域振興会がありそれぞれ活動している。

   上根・向山地域振興会(人口約800人)内には、かつては交通の難所といわれた上根峠、先人の工夫と努力による開発の苦労が偲ばれる本郷地区の棚田、現在は山陽側瀬戸内海へ流れている根の谷川が、太古には山陰側日本海へ流れる簸の川へ流入していたことを示す河床礫層が残っているなどの地域資源がある。

 なお、地域振興会は全国各地の市町村で「自治振興区」「地域振興区」などとも称されている。

《注②》まちづくり市民グループ  可部カラスの会
<創立>1996年  <主な活動地域>広島市安佐北区可部地域(広島市へ合併前の旧可部町域)   <コンセプト>人紡ぎ、夢描き、地域(まち)創る  <会員数>約100名 ※詳しくは、「可部カラスの会」HPをご検索ください。   

《注③》安芸高田市のHPの検索手順
 安芸高田市 → 協働のまちづくり → 各地振興会の活動 → 上根・向山地域振興会 → 活動の様子 → 地域マップ  

《注④》潜龍峡ふれあいの里 
   旧八千代町が1996年に公園としてR54号上根峠の根の谷川対岸に建設し、03年に一度閉鎖した施設。  公園内に広島県三次市布野町出身のアララギ派の歌人、中村憲吉の歌碑がある。 
《ふるさとの地名短歌》【上根峠】
なづみのぼる上根のさかの九折(つづらおり)自動車(くるま)にさやる樹の葉は折らず   中村 憲吉
  1933年7月7日炎暑の中、憲吉が療養先の広島市郊外から帰郷の途次、上根峠付近で10余首を作歌した中の一首を選歌して建立したもの。                            

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2007年11月 3日 (土)

■【可部情報】10/14可部まちづくり活動の情報発信フェスティバル(可部カラスの会ほか)<トンパ文字添付>

可部のまちづくり団体、個人等が「まちづくり屋台村in可部」を開催(広島市安佐北区)

去る10月14日(日)に可部公民館ホールで、可部のまちづくりに取り組んでいるさまざまな団体、企業、個人等19団体等が出展して、普段市民等に余り知られていない福祉、環境、教育、まちづくりなどさまざまな社会貢献活動のPRを行いました。
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これらの団体等は、ボランティア、NPO法人等の「志縁団体」、花作り、福祉活動等の「地縁団体」、法人、個人等の「コミュニティビジネス」(住民主体の地域事業)、社会貢献活動又はCSRの「企業」や地元の私立女子大の「教育機関」などです。

  PR方法は、ブース(小間)での活動等の写真展示、ミニステージでの活動報告に加えて、来場者に情報紙(誌)などの購入に使う模擬紙幣(屋台村通貨=単位:がんす)を会場入口で50がんす分無料で渡し、屋台村通貨を使って売買する仕組みを付加しました。
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当日、会場には参加団体等が所狭しと軒を連ね、さながら“屋台村”ができたようになりました。 
屋台村のネーミングはこの様相から付けました。 ただし、公民館施設のためアルコール飲料の提供は無しです。

  イベントはわずか5時間の開催でしたが、約450名の来場者があり盛況でした。 来場者の感想文の中には「情報が売買できるなんて初めて体験した」などが記してありました。
 このイベント開催で、地域住民に参加団体の可部まちづくりとの関係も少しは分かっていただけたようです。

  今回のイベントに際して、私の所属しているまちづくり市民グループ「可部カラスの会」は、実行委員会のメンバーとして他団体メンバーと一緒に企画段階から後始末段階まで手弁当で携わりました。 
 そのため、私も実行委員会の一員として約4か月前から企画、準備、開催、後始末に追われました。

<《写真提供》可部カラスの会  
  ※「まちづくり屋台村in可部」イベントの詳しい内容については「可部カラスの会」でご検索ください。

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【象形文字の説明】中国雲南省ナシ族が祭祀などに用いているトンパ文字(収録2160字)で、「跳ぶ」を意味します。   志の高い理念やミッション(使命)の下に、事業の定性・定量目標に挑戦する企業、団体、個人等に敬意を表し、本稿では「挑戦」の意味に転用して添付しました。
《出典》王超鷹著『トンパ文字~生きているもう1つの象形文字』マール社

 
 《ブログ4か月間休載のお詫び》 夏から秋までは本業に加えてNPO活動に追われ、その上にPCの故障などでブログ掲載を休止して失礼しました。  
   今後は主に短文で掲載しながら、時々は特集等を長文で掲載の予定です。


 

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2006年12月29日 (金)

■【可部情報】昨年に続き、町家古民家に伝統の“商売繁盛を願うカシ門松”再現(まちづくり市民グループ「可部カラスの会」)

◆古き良き時代の可部商人の正月風習が復活の兆し(広島市安佐北区)
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  暮れの28日、昨年約70年ぶりに再現したカシ門松を今年も市民団体が作りました。  かつて山繭織りの特産地であった可部では、江戸時代の頃から呉服店や山繭問屋がこぞって山繭蛾が葉を食べるカシ類の木を暮れに切り、商売繁盛を願って正月のカシ門松として玄関に立てる風習があったそうです。  その風習も道路に穴を開けて立てるカシ門松が自動車往来の妨げとなるため、約70年前ごろに姿を消しました。(写真提供:可部カラスの会 ※写真はクリックすると拡大できます)
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   今年のカシ門松は、祖父の代まで山繭問屋だった旧街道沿い可部三丁目折り目の町家玄関に、「可部夢街道まちづくりの会」「可部カラスの会」などのメンバー約20人が近くの山からカシを切り出し、高さ5mのカシの木を2本立てました。  その2本のカシの木の間にカシの木を横に通し、中央に注連飾りをつけて完成しました。   賛同していただいた近所の3軒の古民家には、それぞれ横長の藍染幔幕を張り巡らしました。(昨年はカシ門松1軒、賛同の幔幕張りは1軒でした)
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   作業当日(28日)は時折り粉雪が舞う寒い日で、私を含めて参加メンバーは寒さに震えながらの作業でした。  可部もその夜から降雪となり、翌29日朝はカシ門松も雪景色となりました。  カシ門松は1月4日正午まで飾られる予定です。

≪コーヒー・ブレイク≫【カシなどブナ科常緑高木の門松の伝統が残っている地方】例①奥熊野の門松&正月「本宮町では、カドマツというよりカドカザリ(門飾り)にシイノキを使うとのこと。  真っ直ぐに伸びた枝ぶりのよいシイノキを飾ることによって家が栄えるということで、山に入る際にはいいシイノキを探していたとか」(出典:『和歌山県 森林・林業 森の話』HPより)。 
  例②宮崎の正月行事・門松と節木「門松は特に異なった形は見られない。(中略)松や竹に大きなシイ・カシの木を副え立てたり、これが主木となる例も山地には多い」(出典:「『宮崎県史』民族2、小野重朗氏執筆分」HPより)。

≪関連ブログのバックナンバー≫
 ■約70年ぶりにカシ門松再現の町家古民家(2005年12月)
 ■「可部の町めぐり」イベントで地域活性化の起爆剤を目指す(2006年11月)
※下欄の「地域社会貢献……」カテゴリーをクリックすると覗けます。

《季節の短歌》松江より湖(うみ)のわかさぎ火にあぶりおくり来たれり年くれぬとに  岡 麓
※わかさぎ(公魚)は宍道湖の名物。松江ではあまさぎという。

 


 
   

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2006年11月30日 (木)

■【地域イベント】「可部の町めぐり」イベントで地域活性化の起爆剤を目指す(まちづくり市民グループ「可部カラスの会」ほか)

◆古い商家や民家が連なる旧街道や裏小路が賑わう(広島市安佐北区)
  昭和30年代以降、大型店の郊外進出により旧来の近隣型(最寄品中心)あるいは地域型(最寄品店及び買回り品店が混在)の商店街は全国的に停滞または衰退してきました。 
 最近における全国の商店街景況調査によると、私の住んでいる可部町(注①)の旧街道沿いのようないわゆる地域型商店街では、「繁栄している」(3・0%)、「停滞している」(58.8%)、「衰退している」(37.1%)となっています。(中小企業庁「平成15年度商店街実態調査」)
  残念ながら、可部町内においても後継者不足が深刻で、空き店舗が増えています。
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さらに、町内で国道54号(広島市~松江市)と国道191号(中国自動車道広島北IC接続)などが交差するため、信号待ちが長くて町内の交通渋滞が慢性化しています。  そのため、信号が途中一か所しかない旧街道を通り抜けの裏道として利用する車が多くなり、歩道のない旧街道は買い物客などの歩行者、自転車がスピードを上げて通り抜ける自動車との接触事故の危険にさらされており、来街者の減少に追い討ちをかけています。
  
  このような状況下で、全国各地で行政、商工会、商店街、個店等が連携して商店街の活性化に取り組んでいますが、なかなかその成果が現れません。
  そこで3年前から、可部夢街道まちづくりの会(注②)、可部カラスの会(注③)、可部公民館、可部町商工会、可部経営同友会の5団体が実行委員会を組織して、「可部の町めぐり」イベントを年1回(1日のみ)開催しています。 
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このイベントの主な目的は「可部の古い町並みを残して活かしながら、環境、福祉、買い物、教育、文化などのバランスが取れた、ゆとりと潤いのある魅力的なまちづくりを目指す」ことにあります。 本イベントの回遊ルートは主に「可部夢街道」(旧街道)沿いと「花の散歩道」(裏小路)沿いです。
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今年は第3回「可部の町めぐり」を去る11月4日(土)に開催しましたが、今年は全部で町内41か所の見所が公開されます。  その中には、今年新たに築200年の空き家を借り受けて7月にオープンした、NPO法人「ウィング」経営の軽食・喫茶店「可笑屋」(かわらや)や“昭和の町村合併”(昭和30年)で可部町に編入された隣村の元造り酒屋の立川家(明治建築の秀逸な邸宅)などが新しくデビューしました。

  幸い今年の「可部の町めぐり」イベントは好天に恵まれて、10時ー14時(立川家のみ16時まで)のわずか1日限りでしたが、観光客や地元民が約1,000人(実行委員会発表)を超える賑わいでした。 当日、私は可部カラスの会のメンバーとして、南北両端のほぼ中間地点の案内所で数名のスタッフと共に道案内に携わりました。
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  案内所には10時前から訪れる人があったり、ルートと見所をカラー印刷したA3大の案内チラシは次々に訪れる人の波に残りが少なくなり、「家族、グループに1枚配布」の制限までしました。  来訪者が少なくなった際に私は休憩を取って、案内所から近い町めぐりの商家、民家などを回ってみました。  どの商家や民家も見学の人々が訪れていて、主人や家族が対応に追われていました。 特に普段はめったに見られない「家宝」とも云うべき調度品、築数百年の商家や古民家の建物の内部、古風な庭園などが公開されていて、これらが来訪者の関心を集めていました。  

  今年の第3回「可部の町めぐり」イベントにも大勢来訪されましたが、開催場所は4年以前の「点」(有志が単独でバラバラなイベント)から、ようやくこの3年間は「線」(主に夢街道沿い)に広がって来ました。  
  さらに、今後は新国道(現在の国道54号)沿いの商家や民家までが加わって回遊性の在る「面」的な広がりになるよう期待したいものです。≪写真提供 可部カラスの会≫


注①【可部町】 可部町は鎌倉時代に地頭の熊谷氏が城下町として整備し、江戸時代は雲州(出雲地方)と石州(石見地方)の両街道を結ぶ宿場町、陸路や太田川を下る川舟の物資の中継地として栄えました。   かつては、旧街道沿いの主な産業としてヤマ繭織り、酒・醤油の醸造や鋳物製造などがありました。

  昭和初期までの可部は、東西約100m、南北約1kmの小さな細長い町で、街道沿いには黒瓦の軒を連ねた町家作りの町並みがありました。 その後、この街並みは「可部本通り商店街」として長年にわたって可部町民だけでなく、近隣町村からの買い物客でにぎわいました。

  しかし、江戸時代から陰陽を結ぶ主要交通路であった可部本通り(現「可部夢街道」)は道路幅が狭くて大型自動車の離合が困難となり、昭和30年代末に国道54号が別ルートに新設移転してからは、旧街道あるいは旧国道と呼ばれるようになり次第に商店街は衰退していきました。 

注②【可部夢街道まちづくりの会】 当会はJR可部駅西口広場整備を契機として、3年前に設立された地元まちづくり協議会です。 歴史的な街並みの保存・再生及び住環境整備に取り組み、「地域住民の地域活動の活性化」、「来訪者、交流人口の拡大」、「地域の歴史・文化を構成に継続する」ことを目標に、まちづくりの提案や実践を行っています。 詳しくは、公式HP「可部夢街道まちづくりの会」をご覧ください。

注③【可部カラスの会】 10年前に約10人からスタートした「まちづくり市民グループ」(任意団体)です。 当初から会則、会費を決めないで、手探りで活動を始めました。
 そのため、金がなくてもできる活動から活発に始め、次第に地域住民、他の地域団体や行政等に認知・信頼されるようになりました。 その結果、有志からのカンパや講演依頼が次第に増えて活動資金ができました。
 現在、当会の事業活動は多岐にわたっています。 詳しくは、公式HP「可部カラスの会」をご覧ください。

※可部町の地域づくり活動については、特に新聞、テレビ等で適時に報道されています。  最新の報道例としては、朝日新聞06年11月20日付朝刊第2広島「週刊まちぶら」(27面)欄に『可部かいわい(広島市安佐北区)』で載っています。 併せてご覧いただけば「可部の町めぐり」イベントの様子などがよく分かります。 


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2005年12月30日 (金)

■【可部情報】町家古民家に約70年ぶりのカシ門松再現(まちづくり市民グループ「可部カラスの会」)

商売繁盛の願いを込めた可部商人の正月風習を、まちづくり市民グループが再現(広島市安佐北区)   

私が“第3のふるさと”として現在住んでいる可部町は、中世に熊谷氏の築いた高松城の城下町として発展を始め、その後は雲石(出雲・石見)街道の商業・宿場町として栄えて来ました。昭和初期までの可部町は、東西約100m、南北約1km の細長い町で、街道沿いには黒瓦の軒を連ねた町家造りの商家が並んで商いをしていました。

山繭(やままゆ)織りの特産地であった可部では、江戸時代の頃から正月に山繭蛾が葉を食べる常緑樹のカシ類の木を切り、商売繁盛を願ってカシ門松として玄関に立てる風習があったそうです。 家の正面には白抜きの家紋の入った紺の幔幕を張りめぐらせ、まさ土を撒いた道路を竹箒で掃き清めて正月を迎えたと、古老から聞きました。 しかし、その風習も道路に穴を開けて立てるカシ門松は自動車往来の妨げとなるため、約70年前頃に町内から姿を消したそうです。

Dscf2172  まちづくり市民クル-プ「可部カラスの会」(1997年創立、私も会員)では、数年前からこのカシ門松の風習を「ぜひ再現したい」と企画を練ってきました。 ようやく機が熟して今月28日、子供の頃にカシ門松作業を手伝った経験のある古老に指導を仰いで、可部カラスの会のメンバ-所有の町家古民家(築78年)玄関前に、可部カラスの会メンバ-等約20人が作業をしてカシ門松を再現しました。(写真提供:可部カラスの会)
 
 ご関心のある方はヤフ-日本語検索「カシ門松」欄の中国新聞地域ニュ-ス「山繭繁盛祈るカシ門松再現 可部」をご覧ください。関連して「可部カラスの会」ホ-ムペ-ジも覗いて見てください。

《季節の俳句》 【師走】 さいかちの こぼれこぼれつ 師走かな
室生犀星

 

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