2009年9月14日 (月)

■【美術館巡り】9月中旬、江戸時代の庶民の信仰の系譜、木彫りの仏像・神像の行脚僧「円空・木喰展」を観に行きました(広島県三次市「奥田元宗・小由女美術館」)

◆仏への信仰と庶民の救済を願いつつ、都を離れ地方を巡る行脚僧として布教活動をしながら、何百、何千体もの仏像や神像を彫り歩いた円空(えんくう)と木喰(もくじき)の作品を鑑賞
 083_3
   円空(1632年ー1695年)と木喰(1718年ー1810年)の名はその死後暫く忘れ去られ、20世紀になって、地方の寺社に残されていた二人の木像に魅せられた研究者や美術作家らによって、その業績が掘り起こされたといわれています。

  本展覧会では円空と木喰の仏像や神像、約200体が展示してありました。 円空仏はゴツゴツとした野性味に溢れながらも、不可思議な微笑をたたえていることが特徴で、一刀彫という独特の彫りが円空仏の個性を引き立てています。

   一方、木喰の作風はノミの跡も生々しい型破りな様式ですが、円空の荒削りで野生的な作風「円空仏」に比べると、木喰は微笑を浮かべた温和な「微笑仏」と呼ばれるが仏像が多いのが特色です。 今回は二人の作品を同時に鑑賞できる機会に恵まれました。

081_4   円空は江戸時代前期の天台宗の僧侶であり、生涯に12万体の仏像を彫ったといわれ、飛騨、美濃地方の各地に円空の作品と伝えられる木彫りの仏像が多く残されています。

  これに対して、日本全国におびただしい数の遺品が残る「木喰仏」の作者である木喰は、22歳で出家し、56歳の時から日本全国を旅していますが、像を彫り始めたのは60歳を過ぎてからでした。 

  木喰は全国各地を放浪する中で、庶民の願いに応じて数多くの仏像を製作しました。 80歳に1000体、90歳に2000体もの仏像を発願し、現在それらのうち600余体が確認されています。

   これらの現存する貴重な木彫作品が大切に保存され、焼失などで失われることなく後世に伝えられるよう願っています。

030

023  「円空・木喰展」鑑賞後は、本ブログにもたびたび登場する同じ三次市内の隣町(三良坂町)にある佐々木豆腐店(奥田元宋・小由女美術館から車で約10分)へ昼食を摂りに行きました。

  正午前に着きましたが、すでに女性グループや家族連れに座席(約30席)が占められており、私たち3人はレジ横の待機場所でしばらく待ちました。  当店の昼定食は11時~15時ですが、人気の「月替わり定食」(数量限定)を食べようとするお客が、早くから来店するようです。 私たちは別の豆腐定食を食べました。

〔会期 ~10月25日(日)〕※休館日:10月14日(水)

《奥田元宋・小由女美術館》 
●住 所:〒728-0023 広島県三次市東酒屋町453-6 
  ※中国自動車道三次ICから車で約3分
●電 話:0824-65-0010  

《(有)佐々木豆腐店》
●住 所:広島県三次市三良坂町三良坂2610-16(R184号沿い) 
●電 話:0824-44-2662 
●定休日:毎週月曜日、月1回日曜日(不定休)
●URL http://sasaki102.com

《ふるさとの地名俳句》【三次(みよし)雛人形】
  目尻に素秋のかげを三次雛  福島  勲

≪ご案内≫ 
筆者のプロフィールについては、本文左(カレンダー表上)のプロフィール欄をクリックしてください。

|

2009年8月 3日 (月)

■【文学碑巡り】人生の約三分の一を旅人として過ごした歌人・若山牧水の全国唯一「父(牧水)・母・子」3人の歌碑が1か所に建つ「牧水ニ本松公園」を訪ねて(岡山県新見市哲西町)

◆1907年(明治40年)7月、早稲田大学の学生であった若山牧水が、夏休みに郷里宮崎県への帰途、中国路を旅して、備中・備後の国境(くにさかい)の二本松峠に当時あった峠茶屋へ泊まり、短歌「幾山河こえさりゆかば…」ほか1首を詠んだのを記念し設立した公園

107  〔はじめに〕 中国自動車道東城ICからJR芸備線とほぼ平行している国道182号を岡山県新見市方面へ約5分走ると、広島、岡山県境の標識があり、県境の二本松峠から公園の案内標識に沿って左折して入ると牧水二本松公園があります。
  牧水二本松公園のある江戸時代の旧道の県境には、今も備中・備後の国境を示す石柱が立っています。    かつて、石柱の傍には樹齢150年の“国境の松”が立っていましたが、1990年秋に枯れてしまいました。
   
2_100_2  〔歌碑建立の経緯〕 明治から昭和初期の歌人・若山牧水(1885-1928)が宿泊した当時の峠茶屋「福田屋」は、1994年に復元して公園内に牧水やその家族の歌碑とともに建っています。
   牧水は福田屋に泊まり、道中の作歌「幾山河こえさりゆかばさびしさの はてなむ国ぞけふも旅ゆく」他をハガキにしたためて、学友有本芳水へ送ったといわれています。 
  
095_3   牧水が亡くなった翌年の1929年秋、沼津の千本浜公園に、最初の「幾山河こえさりゆかばさびしさの はてなむ国ぞけふも旅ゆく」の歌碑が建立されました。
  当哲西町の牧水二本松公園「幾山河…」の歌碑は1964年の建立で、牧水の碑としては42番目だそうです。  「幾山河…」の歌碑数は275基(1996年現在)確認されています。

098 1964年「幾山河…」の歌碑序幕のとき、喜志子夫人から歌碑建立の喜びの声の録音テープとともに送られた2首の歌が披露されました。
 「あくがれの旅路ゆきつつ此処にやどり この石文の歌は残しし」(歌碑表)
 「うつそ身の老いのかなしさうらめしさ ただ居つ起ちつ志のぶばかりぞ」(歌碑裏)
  この2首の歌は1974年、牧水の歌碑の隣に歌碑を建立・序幕されました。  

097_2   喜志子夫人の歌碑除幕式に列席した牧水の長男旅人氏が、貴志子夫人の歌碑に献じた歌1首は次のとおりです。
 「若くしてゆきにし夫のかたはらに 永久の睦みをよろこばむ母は」(歌碑は1977年建立)
 若山家「父・母・子」の三つの歌碑が、同一場所に立てられたのは、これが初めてということです。

 〔おわりに〕 牧水の「幾山河…」は高校の日本文学で習ってから、郷土(広島県三次市出身)の歌人・中村憲吉とともに親しみを感じ、30代前半に入門した詩吟教室で愛唱した歌です。

  その後、旅が多い現在の仕事(別欄プロフィールご参照)に転進しましたので、今では“人生の三分の一を旅人として過ごした牧水”に特別の親しみを感じています。

  長年、マイカー(現在はキャンピングカー仕様の1BOX4WD車)を利用して仕事や趣味に各地へ出かけるようになり、R182号の二本松峠を通る際はその都度、牧水歌碑に立ち寄っています。 

  '07年に牧水が二本松峠を越えてから100年目を記念して、これまで狭かった歌碑設置場所が、広い公園に拡張・整備されました。 今回、私は整備後初めて訪れました。  

  牧水が二本松峠で詠んだ他の1首「けふもまたこころの鉦をうち鳴らし うち鳴らしつつあくがれてゆく」の歌碑が、100年ぶりに「幾山河…」と同じ公園内へ'07年に'建立されました。

《問い合わせ》
・道の駅「鯉が窪」 電話0867-94-9017(木曜・定休日)

《資料》
・新見市役所HP観光情報
・『道の駅鯉が窪』リーフレットほか

《ふるさとの地名俳句》【二本松峠牧水歌碑】
 牧水の越えし峠の露の歌碑  一瀬 あやめ


|

2009年7月 8日 (水)

■【美術館巡り】開館10周年記念展「フランス絵画の19世紀」鑑賞&「日本の夕日百選」指定の宍道湖畔に佇む夕日を眺望(松江市「島根県立美術館」)

◆ルーブル、オルセーなど著名美術館や米国、スペインなど約40館の大作絵画などを鑑賞し、併せて美術館内のガラス越しに見える宍道湖畔の昼景色及び茜色に染まる湖畔の夕日の佇まいを館内外から眺望

  5月中旬、午前中からの出雲市内における神仏霊場巡り(須佐神社、長浜神社、日御碕神社、出雲大社、計4神社)を私たち3人は早めに切り上げ、午後4時前に本日の主目的である松江市の島根県立美術館へ向かいました。

  当館へは10年前の開館当初に、私たち夫婦は美術鑑賞に訪れたことはありますが、当時から家人が望んでいた茜色に染まる夕日を、美術館内外から眺めるのは初めてです。

090514_0063 まず始めに「フランス絵画の19世紀」展を鑑賞しました。  本展覧会は当館開館10周年記念展として、去る3月6日から5月31日まで開催されました。 ※ブログの写真はクリックすれば拡大できます

  アカデミスムと印象派の二つの潮流から19世紀フランス絵画の100年を紹介したものですが、ルーブル、オルセーなど国内外約40美術館の珠玉のコレクション約80点が展示されており、見応えのある内容でした。 

期間中の入館者数が、歴代2位の80,944人で、10年前の開館記念展「水の物語」109,906人に次ぐ入館者数だったそうです(6月1日当美術館発表)。

090514_0071 本リーフレットは当館の「展覧会案内」でして、当館の展覧会スケジュール、館内施設の概要が掲載されています。

  当館の特色については、「景色そのものがアート」(宍道湖畔に位置し、ガラス張りの開放感あるロビーから見える景色そのものがアートとなり、訪れる人々を愉しませます)、「水と調和する美術館」(水辺の美術館ならではの視点で、水をモチーフとした作品を多くコレクションし、年間を通してこれらの作品をご覧いただけます)と紹介してありました。

0905140031 当館では美術作品の一部を館外に展示して、誰もが野外作品と宍道湖を始めとする自然との調和を眺めたり、作品に直に触れる場を提供しています。
 
  館外の湖畔水辺に設置してある兎のブロンズ彫像《宍道湖うさぎ》は、縁結びの象徴として近年人気を呼んでいるそうです。 当館の野外彫刻は皆で8つの彫刻が配置されていて、湖畔の散策者の楽しみでもあります。

0905140043  当日の夕刻、湖畔で私が夕日の撮影場所を事前にカメラを構えて位置決めしている時、華やいだ雰囲気のグループがやってきました。
 
  近いうちに結婚式を挙げる新郎、新婦の当事者とその友人たちが、披露宴の際に放映したり、記念アルバムに載せるシーンを撮影するようでした。  

0905140038  私が館外の土手から、遠くの水辺ににある《宍道湖うさぎ》を望遠レンズで撮ろうとした時、その場所にカップルと仲間が移動してきました。
  かなり撮影時間がかかりそうなので、無粋な声掛けをせずにそのまま撮影しました。 

 そこで、当日その場に居合わせた者として、遅くなりましたが 

 《夢みたものは ひとつの幸福/ねがったものはひとつの愛/それらはすべてここに ある と》
                                立原 道造 『夢みたものは……』の詩の一節を贈ります。

090514_0046  さて話題が変わりますが、宍道湖の夕日眺望については、当館も粋な計らいをこの10年間(これからも)続行中です。

  それは、例年3月から9月までは閉館時間(10月~2月は午後6時30分)を、日没後30分まで伸ばして、入館者が館内外から宍道湖の夕日を眺められるように取り計らっています(展示室への入場は閉館時刻の30分前まで)。

  入館当日は日没が午後7時過ぎでしたので、日没まで夕日が宍道湖面に沈む光景を館内外からゆっくり堪能し、カメラに収めました。

090514_0055   おかげ様で、私は今年度で経営コンサルタント歴40年になりました。  駆け出しの頃は中国、四国、九州が活動エリアでした。 当初から松江市内の仕事もあり、宍道湖に映える夕日は市内の宿などから眺めたものでした。
 
  出雲国霊場巡りと島根県立美術館に立ち寄った、強行軍の日の夕食は遅くなりました。 午後8時半頃になってようやくマイカーで帰路のR54号沿い「道の駅掛合の里」で、出雲そば(昼食も同じ)を閉店間際に食べました。

《島根県立美術館》
●住 所:〒690-0049 松江市袖師町1-5
●電 話:0852-55-4700(代)
●H  P:島根県立美術館

《ふるさとの地名俳句》【宍道湖の夕日】
 宍道湖へ日輪たぎりつつ沈む  中村 苑子   

  

|

2009年5月 9日 (土)

■【美術館巡り】書画・陶芸と美食の全貌「没後50年北大路魯山人展」を観に(広島県ふくやま美術館ほか)

篆刻家、画家、陶芸家、書道家、漆芸家、料理家、美食家など様々な顔を持つ美と食の巨人の魅力

♣ 書家として出発した魯山人
  北大路魯山人(1883-1959年)の初期から晩年までの約250点を集めた「没後50年北大路魯山人展」が、ふくやま美術館と、ふくやま書道美術館で、4月4日(土)から5月17日(日)まで開催中です。 
 4月下旬の平日、会場の福山市まで主に山陽自動車道を利用して出かけました。 近年、当美術館および書道美術館の2館へは、マイカーで年1~2回訪れています。 

001  魯山人の芸術の原点は書と彫刻にあるといわれています。 独学で日本や中国の書に打ち込んだそうです。

1904年、21歳で第36回日本美術展覧会に出品した隷書「千字文」が一等賞2席となり、一躍有名になったと伝わっています。 

  ふくやま書道美術館では、制作活動の出発点となった篆刻(てんこく)・書画を中心に展示してありました。 展示品の隷書「酒猶兵」(1913年)は、魯山人が酒造主富田八郎のために書いたものだそうですが、その意味は「酒も兵も同様に人身を損なう」(出典:中国の歴史書『南書』)と解説にありました。 酒好きの我々には耳の痛い言葉です。
  
♣ 食客として各地を巡りながら、美術品への審美眼と美食への関心 
005   一方、ふくやま美術館では、「星岡茶寮」(ほしがおかさりょう)で使用され魯山人の美食に彩を添えた器を含む陶芸作品が展示してありました。 

  魯山人は1925年には、会員制の高級料亭・星岡茶寮で顧問兼料理長をつとめ、料理の分野において異彩を放ったと知りました。  なお、このころから作陶も始めたようです。 陶磁器制作に専念し始めたのは、1936年以降です。

  展示品の京焼「色絵椿文鉢」(1930-40年代)は、1935年ごろから次第に最初制作の中国風から離れて、桃山時代を中心にした日本的な優美さを目指すようになったころの作品と知りました。  これらは「いずれも『食器は料理のきもの』と繰り返していた魯山人の思いがしのばれる一品」と解説にありました。

  「美と食の巨人・魯山人の魅力はすばらしい!!」と申し上げたいですが、今回初めて魯山人の約250点もの大量の作品展を見た私には、魯山人の魅力はまだまだ良く判りません。 

《ふくやま美術館》
●住 所:福山市西町二丁目4-3
●電 話:084-932-2345
●HP(日本語検索):ふくやま美術館

《ふくやま書道美術館》
●住 所:福山市西町一丁目1-1
●電 話:084-991-5112
●HP(日本語検索):ふくやま書道美術館

《ふるさとの地名俳句》【福山城公園】
 昇りたる月をはなれて落花かな  寺地 邦雄  
※ふくやま美術館は福山城公園内にあります。
   

|

2009年4月27日 (月)

■【美術館巡り】温泉宿泊施設が評判の道の駅へ併設した「はらみちを美術館」は、開館3周年記念特別展開催中(主要地方道三次高野線「道の駅ふぉレスト君田」)

◆詩画家はらみちをが日本三景の一つである厳島(宮島)を訪れて伝統の宮島管絃祭(注)を描いた、「はらみちを厳島を描く」原画展を観る
  015
去る25日既報のブログ「奥田元宋・小由女美術館」企画展観賞が午前中に終わったので、これまで何度か立ち寄った合併前の隣町(三良坂町)にある豆腐製造兼豆腐料理店「佐々木豆腐店」まで車を駆って、昼食は各自好みの豆腐料理を注文しました。
  014
主な食事メニューは「○○定食」(奴定食、厚揚げ定食、油揚げ定食、豆乳うどん定食等、いずれも、おかず、汁、黒米ご飯付、700~800円台)及び「○○の膳」(月替りの膳、豆遊膳、生湯葉の膳等、いずれも、おかず、汁、黒米ご飯付、1,100~1,200円台)です。 なお、別格の福福膳メニューは、デザート付きで1,575円です。

  腹ごしらえが終わると、旧三次市隣接の旧君田村(現君田町)道の駅「ふぉレスト君田」に併設されている「はらみちを美術館」を目指して、桜の花がまだ6.7分咲きの主要地方道を川沿いに上りました。
  019
雨の中をようやく道の駅「ふぉレスト君田」に着きました。 当駅は開設当初から君田温泉「森の泉」(宿泊)として有名なため、建物正面の駐車場は入浴目的の車でほぼ満車状態でした。 参考までに、'07年(1~12月)の当温泉入浴客数は約253,000人(対前年比▲12.6%)でした(県観光統計)。
  025
当駅の正面向かって左端建物が「はらみちを美術館」です。 3年前に道の駅施設に併設したため、建物は並んで建っていますが、温泉宿泊施設とは土地が一段低く、しかも別棟になっていて目立ちません。
  そのため、美術館の案内板が駐車場出入口に立っていても小さくて余り目立たず、温泉宿泊客の中には美術館の存在すら気付かない人もありそうです。

026 さて、特別企画展は一室しかない常設展示室の壁面等を利用して、常設展示品とともに展示してありました。
展示物は1989年に出版した絵本『さいぶりダイちゃん』の原画15枚で、厳島神社の大鳥居をイメージした赤い額縁に、厳島神社の回廊を子どもが走り回る姿や管絃祭のために数多くの船が集まる様子などが描かれていました(展示室内撮影禁止のため展示品の写真はありません)。

003 受付で渡された解説文「宮島管絃祭の由来」によると、作者(広島市在住)が「(管絃祭に参加した)稚児さんのところで泊り込みで管絃祭(の様子)を描かれた」と記述してありました。
   「母と子」をテーマに活動しているはらみちをが、厳島最大の神事を描いた貴重な作品でした。(会期:~5月15日まで)
 
《注:宮島管絃祭》
  管絃祭は平清盛が安芸の守(あきのかみ)に任ぜられた1146年~1156年頃、都から菅絃祭を移入したのが始まり。

  この厳島最大の神事は旧暦6月17日(新暦7月末~8月初め)に毎年開催され、美しく飾られたご座船が雅楽を奏しながら3隻の漕船(1700年頃、ご座船が儀式終了後の海上で台風に出会い沈没寸前、付近に出漁していた2村の漁船に救助されたのが縁で、以来、この2村から3隻、即ち現在の広島市江波地区から1隻及び呉市阿賀地区から2隻の船と決まっている)に引かれていく華麗豪快な海の祭典。

 それを参拝するため近海の漁船400隻余り、遠くは九州、四国からのぼりを立てて集まってくる。
 <資料> 美術館の解説文「宮島管絃祭の由来」から抜粋。 ※文中の()は筆者注記。

《有限会社佐々木豆腐店》
●住所:〒729-4304 広島県三次市三良坂町2610-16
●HP(日本語検索):豆遊佐々木豆腐店

《道の駅ふぉレスト君田》
●住所:〒728-0405 広島県三次市君田町泉吉田311-3
●HP(日本語検索):ふぉレスト君田

《はらみちを美術館》
●住所:  道の駅ふぉレスト君田 内
●HP(日本語検索):はらみちを美術館

《ふるさとの旧村花に因んだ俳句》 【こぶし】モクレン科 
※平成合併前の旧君田村の村花
 空に咲く白のはじめの花辛夷(こぶし)  宮津 昭彦
〔NHK花言葉〕友情、歓迎

| | トラックバック (0)

2009年4月24日 (金)

■【美術館巡り】近代日本画 美の系譜~大観・春草から元宋・辰雄まで~を観て(広島県三次市「奥田元宗・小由女美術館」)

◆日本画専門の美術館・水野美術館(長野市)のコレクション約400点の中から、その殆どが広島初公開となった60点の名品を、一堂に展観

♣ 展示作品は幅広い魅力を持つ日本画の世界
 006
  本展は去る’09年3月6日~4月12日まで、奥田元宋・小由女美術館(以下、当館という)の企画展として開催されました。  当館へは開館以来年数回は企画展に訪れており、本展は予てより開催予告チラシをみ見て家人も関心を寄せていましたので、4月下旬に家人の友人も誘ってマイカーで訪れました。
  005
  当水野コレクションは東京美術学校(現東京藝術大学)を開校したフェノロサと岡倉天心に共鳴した当時の大御所・橋本雅邦や、そのもとで育った横山大観、下村観山、菱田春草ら近代日本絵画を形成した巨匠たちの作品約400点を系統立てて集めてあります。

 004 
  その中のわずか60点を今回観賞しましたが、その中でも
①雅邦、大観、春草ら日本美術院の画家たちの活躍…作品例:「寒山拾得」雅邦、「無我」大観、「稲田姫(奇縁)春草」
②日本画の魅力の一つである美人画の上村松園、鏑木清方、伊東深水の活躍…作品例:「かんざし」松園、「大川の虹」清方、「鏡獅子」深水
等は圧巻でした。
  その他に
③日本画に「風景」というジャンルを根付かせた川合玉堂とその玉堂に師事し徹底した写実性を追求した児玉希望(広島県出身)、二人の精神に学び故郷(現三次市)で風景画家として開眼した奥田元宋の巨匠・師弟三代の活躍…作品例:「暮雪」玉堂、「春月」希望、「多摩月照」元宋
等に惹きつけられました。 

 ぜひ水野美術館を訪れて、その他残りの作品も観賞したいものです。

 当館の次の企画展は「奥田小由女文化功労者顕彰記念 女流作家巨匠展」(4月24日~5月24日)です。 ぜひお出かけください。

(参考) 当館'07年(1~12月)の入館者数は、県の観光統計によると約229,000人(対前年比▲44.2%)でした。

《奥田元宋・小由女美術館》 電話(0824)65-0010
 ●住  所:広島県三次市東酒河町453-6
 ●休館日:毎月第2水曜日、年末年始、作品入替等による臨時休館あり

《ふるさとの地名俳句》【三次(みよし)人形】粘土を原料とした土人形。 三次市伝統的工芸品、 広島県無形文化財。
  伝承の稚拙好もし郷土雛  石田 黄雀 

| | トラックバック (0)

2008年12月 1日 (月)

■【美術館巡り】特別展「徳川家・姫君の華麗なる世界~徳川美術館の名品~」を観て(福山市・広島県立歴史博物館)

尾張徳川家に伝わる至宝(名古屋市・徳川美術館所蔵)を歴代の姫の人生儀礼や生活に即して、「節目を祝う」「姫君の装い」「たしなみと遊び」の3部門で構成展示して好評。入館者4万人突破!!
   014
   特別展「徳川家・姫君の華麗なる世界~徳川美術館の名品~」(以下、本展という)は、去る10月17日(金)から11月24日(月・祝)まで広島県福山市内の県立歴史博物館(以下、当館という)で開催されたので、家人と遠出を兼ねて車で観に行きました。

   徳川美術館は、江戸時代に御三家筆頭として将軍家に次ぐ格式を誇った尾張徳川家に伝えられた重宝を収蔵することで広く知られています。   
   003
   本展には婚礼調度をはじめ、儀礼に用いられた道具、華やかな衣服や調度品、絵巻、武具など、国宝、重要文化財を含む徳川美術館所蔵の調度品約110点が展示されました。

   閉幕3日前の11月21日、入館者が4万人に達したと新聞、TVで報道されました。
   国内の多くの博物館が開館数年後から入館者の頭打ち傾向にある中で、本展の開催で本年度の当館は入館者増になりました。

   当館の過去4か年(暦年)の入館者数は、2004年が約37,000人、2005年が約34,000人、2006年が約34,000人、2007年が約86,000人となっています(出典:『広島県観光客数の動向』広島県)。  当館の一つの特別展開催で40,000人の入館者数は特筆に値します。

   本展の案内チラシの片隅に「同時開催:NHK大河ドラマ『篤姫』展」(10月17日~11月3日)が観覧料無料で掲載されていましたので、その相乗効果もあったのでしょうか。 なお、NHK大河ドラマ「篤姫」は後2回の放映で、好評裡に終わりそうです。

《ふるさとの地名俳句》【干満の潮待ち港・鞆の浦】
鞆の津の酒屋で暦もらひけり  越智 晶子 

| | トラックバック (0)

2008年11月10日 (月)

■【博物館巡り】特別展「西国三十三所ー観音霊場の祈りと美」を観て(名古屋市立博物館)

四国八十八か所巡礼と並んで最もよく知られた巡礼の道、西国三十三所巡礼の歴史と観音信仰に基づく美の世界紹介
     京都・清水寺、奈良・長谷寺など近畿周辺の観音霊場を巡る西国三十三所巡礼は、最初に僧侶の修行として始まり、その後、貴族、民衆へと広まりました。

   この参詣は現在も多くの人々に親しまれ、わが家の家人は数年前に貸切バスで巡礼を終えています。      一方、私は京都、奈良の西国三十三所の数か寺の霊場へはお参りしましたが、それ以外の霊場へはお参りしていません。
   027
   特別展「西国三十三所ー観音霊場の祈りと美」(以下、本展という)は今年が西国三十三所巡礼中興の祖、花山法王の一千年忌にあたることを記念し、三十三所全霊場に伝えられた宝物を一堂に会したものです。
   本展は去る9月下旬まで奈良国立博物館において開催されていましたが、当時は時間が取れず残念ながら奈良での鑑賞を見送りました。 

   その後、仕事で10月17日に東京都内で会議へ出席する機会があり、都内で一泊後の翌18日から名古屋市立博物館で開催された本展を観に、18日の帰途新幹線名古屋駅で途中下車しました。
  002
  会場入り口には本展のポスター等が随所に掲示してあり、本展のムード盛り上げがしてありました。
   展示作品の中で、安置してある寺院で滅多に開帳されることがない「秘仏」が、本展で開帳されるものもあって話題になっています。

   たとえば、京都・清水寺(16番札所)奥の院本尊「千手観音坐像」(重要文化財)は長らく秘仏とされてきましたが、寺内では5年前、実に243年ぶりに開帳されました。  寺外ではこのたび本展で初めて公開されました。
   028
有名な仏像では、奈良・岡寺(7番)の「菩薩半迦像」(重要文化財)や岐阜・華厳寺」(33番)の「毘沙門天立像」(重要文化財)などが展示してありました。   

   また、絵巻物では同じ清水寺の「清水寺縁起絵巻」や和歌山・粉河寺(3番)の「粉河寺縁起絵巻」などが展示してありました。

    これまで西国三十三所めぐりは、京都・奈良の数か寺しかお参りしていない私にとって、本展は巡礼のための事前勉強になりました。

   私はこれまでマイカーを使って、中国三十三観音霊場巡り、四国八十八か所霊場巡り(4年前の閏年に逆打ち)を終えまして、「今度挑戦するのは西国三十三所観音霊場巡り」と心に決めています。

   なお、名古屋市立博物館の特別展「西国三十三所ー観音霊場の祈りと美」は11月30日まで 

《問い合わせ先》 
名古屋市立博物館 電話052-853-2655
             休舘日:月曜日(ただし、11月24日は開館)
                   11月25日(火) 

《ふるさとの地名俳句》【尾張大根】 
争ひて尾張大根乾く日ぞ  中村 汀女  



  
   

  

     

| | トラックバック (0)

2008年10月 7日 (火)

■【美術館巡り】尾道市出身で文化勲章受賞の彫刻家「円鍔勝三の心象世界」特別展を観て(尾道市御調町 彫刻美術館円鍔記念館)

◆尾道市制施行110周年記念 円鍔記念館・平成20年度秋の特別展開催中  
  086_2
9月下旬、尾道市御調町の円鍔記念館を家人と家人の友人計3人でマイカーを利用して訪れました。  記念館の主人公・彫刻家円鍔勝三は1905年に現在の尾道市御調町に生まれました。  1993年、出身地御調町の高台にオープンした、切り妻造りの3層屋根が印象的な円鍔記念館から、円鍔勝三がこよなく愛した郷里・御調町の市街地が眼下に見渡せます。 

  051
記念館前の公園の芝生にはブロンズ像7体が野外設置されており、入館しなくても作品の鑑賞、広場の散策、レクリエーションが楽しめます。  でも、記念館入り口まで行って入り口のガラス越しに館内ホールへ展示してある大小多数の彫刻群を目にすると、きっと入館せざるを得ない気持ちになることでしょう。

  052
入館すると、館内にはホール、第1展示室、第2展示室の3か所に、円鍔勝三の心情を表現した作品を中に60点が展示してありました。 どの作品も彩色や素材を駆使し明るく、作品の説明文の多くは1人称(私)で書かれていて親しみやすく、ロマンにあふれた円鍔作品が観る人を魅了しています。

  055
作品は木彫りを中心に、大理石、テラゾー(人造大理石)、彫金、ブロンズなどのさまざまな素材を用いてありました。  主な展示作品は、サーカスの思い出が夢のある作品になった「芸」、木彫りの技法と青銅板、像の頭上に3つの針金を付けた、ユーモラスで明るい気分にさせてくれる「星羅」などがあります。(~11月30日まで)

  なお、円鍔勝三は2003年に98歳で亡くなりました。

 《問い合わせ》
 
円鍔記念館  電話 0848-76-2888
                 休館日:月曜日(祝日の場合は翌日)

 《ふるさとの地名俳句》 【備後尾道】
 備後尾道煙のやうに鳥渡る  玉出 雁梓幸
 ※旧備後国は広島県の東半部です。旧御調町は平成大合併で尾道市に編入しました。
  

  

| | トラックバック (0)

2008年7月 5日 (土)

■【美術館巡り】かつて瀬戸内の海上交通の要衝として栄えた朝鮮通信使寄港の島で、「近代日本画壇の巨匠・東山魁夷とその周辺」を観る(三之瀬御本陣芸術文化館)

◆江戸時代に朝鮮通信使が11回立ち寄った古い歴史と伝統の町に、「全島庭園化事業」と芸術文化施設群を整備(呉市下蒲刈町) 
  6月中旬、マイカーに家人と東山魁夷フアンの友人を乗せて、呉市下蒲刈町の三之瀬御本陣芸術文化館へ特別展「東山魁夷とその周辺」(4月25日~6月29日)を観に行きました。
  0005
展覧会場はJR呉線沿いの国道185号線から安芸灘大橋(有料)を渡った下蒲刈島にあります。  友人にとっては初めて訪れる土地でしたから、見たり、聞いたりすることがすべて新しい発見でした。

0003 会場には近代日本の巨匠と呼ばれ、今年生誕100年を迎えた東山魁夷(1908-1999)の画業を顕彰する特別展を中心に、併せて夫人の実家であり、近代日本画壇を牽引した小虎、鈴彦、麻児の川崎家3代の作品も展示してありました。

本展では、日本やヨーロッパの風景を、季節感を織り込めながら象徴的世界にまで推し進めた東山魁夷の作品の数々や夫人の実家である川崎家3代のそれぞれ特徴のある作品に、入場者は熱心に見入っていました。

  ただし、魁夷の絵画だけを目当ての方には、川崎家3代の絵画の前で足を止める人が少ないように感じました。

  なお、本館は「須田国太郎常設展示館」として、須田国太郎の油彩画をはじめ、愛用の帽子やトランク、コレクションしていたグリコのおまけなどが展示されていました。

  館名の「三之瀬御本陣」というのは、古来より海上交通の要衝として栄えた海駅・下蒲刈町に、かつて大名・幕吏・公家などの往時の宿泊所として使われた御本陣があリました。
  三之瀬御本陣芸術文化館は、当時の建物の外観を復元したものです。

  その他、当地区では隣接して全島庭園化事業(ガーデンアイランド構想)の一環として整備したゾーンを、みどり豊かなおちつきと潤いのある庭園にふさわしく「松涛園」と命名して公開しています。
  008
松涛園は、<陶磁器館>(旧木上邸)、朝鮮通信使資料館<御馳走一番館>(旧有川邸)、<あかりの館>(旧吉田邸)、復元<蒲刈島御番所>の4施設で構成されています。 

  4施設それぞれ特徴がありますが、復元された<蒲刈島御番所>を除く3施設の建物はどれも島外の各地から移設して、それぞれ旧家の特徴を活かしながら用いてあります。

 ☆<陶磁器館>(旧木上邸)は、日本3景の一つ厳島神社で有名な広島県廿日市市宮島の門前町にあった町家を移設
 ☆朝鮮通信使資料館<御馳走一番館>は、富山県砺波地方の代表的な町家を移設
 ☆<あかりの館>(旧吉田邸)は、下蒲刈と同じく朝鮮通信使の寄港地であった山口県上関町の旧家を移設です。  

  そのほかの関連施設として、蘭島閣美術館、蘭島閣美術館別館等があります。

《問合せ先》
<下蒲刈町の芸術文化施設> (財)蘭島文化振興財団 電話0823-65-2029
<呉市の観光全般> 呉観光協会 電話0823-21-8365

《ふるさとの地名俳句》【蒲刈島御番所跡】
啓蟄や御番所跡の石を踏む  木場 一恵


 
  

  
  
  

| | トラックバック (0)

2008年6月 9日 (月)

■“朗報!!”岡本太郎原爆壁画《明日の神話》原画が広島市に寄託へ(岡本太郎現代芸術振興財団)ー≪《明日の神話》広島誘致情報④≫ー

◆巨大壁画誘致が叶わなかった広島市に、財団が原爆壁画の1号原画を寄託(広島市)
  去る3月19日付の本ブログで《明日の神話》(縦5.5m、横30m)の恒久設置場所が、東京都渋谷区に決定した旨お伝えしました。 

  その後、広島市が「何らかの形で岡本氏の平和へのメッセージを伝えたい」と要望し、財団と協議を続けていました。  その願いが叶って原画が財団から広島市(所蔵は市現代美術館)へ寄託されることに決まりました。

 原画は油彩で縦48cm、横195cm。  色使いや構図は壁画とほぼ同じです。  所有権は財団のままですが、3年毎に寄託契約を自動更新します。
 
  報道によると、契約と寄託式は6月6日に市現代美術館(広島市南区))で行なわれ、「秋葉市長は『創造的な思いが最初に具体的に描かれた作品。 その気持ちを世界に伝えたい』」と述べ、「(財団の)平野常務理事は『(岡本)太郎が生前、最後の作品展を開いたのがこの美術館。 太郎の遺伝子が残ることを誇りに思う』と述べた」と伝えています('08.6.7中国新聞朝刊)。 

  市現代美術館では、今年の8月6日「原爆の日」に合わせた公開を検討しています。

《問い合わせ先》
 広島市現代美術館  電話 082-264-1121

《ふるさとの地名俳句》【広島忌】(原爆の日)
P1180002
ケロイドを見せ合いて今日広島忌  畠中 巨骨  

  

  

| | トラックバック (0)

2008年5月18日 (日)

■【美術館巡り】浄土真宗“安芸門徒”の地・広島で親鸞聖人750回大遠忌記念「本願寺展」を鑑賞(広島県立美術館)

普段、公開されることのない至宝の数々を観て、本願寺の歴史を物語る文化遺産と美の世界に浸る
 
わが家は浄土真宗“安芸門徒”の一員 
P4300005 4月下旬の平日、浄土真宗本願寺派西本願寺が開催している宗祖・親鸞聖人750回大遠忌をひかえた記念事業の一つである、「本願寺展」(~5月25日まで)を家人と観に行きました。

  私の住んでいる広島県には昔から浄土真宗の“安芸門徒”(注)と呼ばれる、全国でも有数な信者集団がありました。

  私の父母は二人とも広島県北の同じ郡内の別々の農村で育ち、結婚後は夫婦で太平洋戦争前の広島市に出て働きました。  その後、私が生まれてから半年後に、父の実家(本家は父の長兄が農家の家督を継いでいた)の隣家へ家族3人で帰り住みました。  

  亡父の生前の話では「故郷へ帰って間もなくして、父の実家の法要に来られた住職から『あなたの本家はうちの寺の門徒だから、分家のあなたも…』と、否応なしにそのお寺の門徒に組み込まれた」と申しておりました。 
  
  しかし、父母とも浄土真宗への信仰心は厚く、私も幼児の頃から父母と一緒に仏壇の前で念仏を唱え、手を合わせるのが慣わしになっていました。  私が就学前の5歳の時、伯父家族とわが家の家族が連れ立ってご本山(西本願寺)へ参詣したのを覚えています。

  その折に、浄土真宗門徒として仏弟子となり、信心に生きる決意を表す「帰敬式」(親鸞聖人の得度にならってご門主様から「おかみそり」を受け、仏弟子として法名をいただく)に参列しました。  その時の厳粛な儀式の様子は、今でも断片的に覚えています。

  当時、ご本山に一緒にお詣りした両親、伯父夫婦や私と一つ年下の従弟も今はこの世になく、私の両親の墓は数年前に私が現在住んでいる可部へ移設して、長男の私が墓守りをしています。  

  成長するにつれて、私は仕事にかまけて熱心な門徒ではなくなりましたが、今でも安芸門徒の一員としての自覚は持っています。 

  そのため、最近は飛び込みで美術鑑賞することが多い私ですが、「本願寺展」は計画的に前売券を買って観に行きました。

▼平日も安芸門徒であふれる「本願寺展」の賑わい 
  P4300008
本展覧会の開会式は4月18日に行なわれ、特別来賓の本願寺門主後継者・大谷光淳新門が「広島県はご門徒が多い。  親鸞聖人の教えをありがたく感じていただきたい。お寺にご縁のない方にも本願寺を身近に感じていただければ」と挨拶されたと、新聞が報じていました。 

  出品件数は本願寺などが所蔵する親鸞聖人と歴代門主の肖像や絵巻物、浄土真宗の典籍類を始め、古筆、堂宇・書院の障壁画等、国宝5件、重要文化財27件を含む約150件で構成され、国宝・文化財は適宜展示替えが行なわれています。
 P4300009
  いつものことながら、 美術展等は本ブログに美術品等の写真を掲載できないのが残念です。  しかし、ご本山へお参りしても普段公開されることのない本願寺の至宝の数々が、“安芸門徒”の地・広島で鑑賞できたことはありがたいことです。

  さすが入場者は平日でも老若男女と多く、家族連れ、小グループだけでなく、僧侶に引率された安芸門徒の団体で会場は混雑していました。   

▼広島での「本願寺展」1か月間の入場者は5万人に達し盛況
  4月18日から開催された「本願寺展」は1か月経った5月17日に「入場者が5万人に達した」と、新聞が報じていました。  本展覧会も残り少なくなりましたが、まだまだ入場者が押しかけるようです。

  わが家は京都、奈良方面へ家族4人、時には義父母や義妹も一緒、子どもが大きくなってからは夫婦二人で、長年にわたりよく出掛けました。  その主な目的は寺社詣ででした。
  Ppic000256
余談になりますが、近年は4年前のうるう年に、「四国霊場88か所巡礼」を家人と二人でキャンピングカー(車中泊可能)に改造のマイカーで、数回に分けて逆打ち巡礼し結願しました。 

  また、翌年は高野山へマイカー(車中泊)で行き、高野山奥の院で入定(にゅうじょう)されている弘法大師に四国霊場巡礼のお礼詣りをし、帰途は奈良・京都の寺社等に立ち寄って帰りました。 

  特に、奈良は私がかつて設立を指導した道の駅「宇陀路室生」に立ち寄り、近くの“女人高野”室生寺にお詣りして帰りました。 
  
  今度、京都、奈良方面へ出掛ける際は、ゆっくりと本願寺を訪れてみたいと思っています。

(注)安芸門徒 
  安芸の国には瀬戸内海航路を通して近畿圏から浄土真宗の信仰が伝播して、毛利氏以前から熱心な信者が圧倒的な数を占めていました。  毛利氏が勢力を拡大していったのも、この安芸の信者の力と一体となっていたからです。 

  この固まりが江戸時代に入って門徒制度が出来てから「安芸の門徒衆」と呼ばれていたのが、次第に「安芸門徒」という呼び方になって、その力量が全国的に有名になりました。
 【出典】安芸門徒と本願寺展ー仏教のことが分かる毎日日記(ブログ)佐々木 博真氏から抜粋

《ふるさとの地名俳句》【京都・本願寺(西本願寺)】※本編ではご本山に関連した句を掲載
ねんぶつの波浪返しに屏風立つ  赤松 薫子 
   

|

2008年4月16日 (水)

■【美術館巡り】日本における近代美術の歩み「日展100年」展を観て(広島県立美術館)

文展(文部省美術展覧会)創設から現在の日展までの近現代日本美術の流れを概観(広島市中区)
  P3180014_2
3月下旬に、家人と「日展100年」展を見に行きました。  日展(注)には私も近年欠かさず観に行っています。 

  日展は官主導の美術展覧会、すなわち「官展」の系譜を引き継いでいるイメージが離れませんが、 過去1世紀の近現代日本美術の大きな流れを概観できる本展覧会には興味がありました。

  展覧会案内チラシには、主な作家として上村松園、梅原龍三郎、奥田元宋、川合玉堂、黒田清輝、藤島武二、東山魁夷、横山大観などを挙げて、出展作品の中から15点の絵画・彫刻の全体または部分が写真で紹介してありました。 そのうち、絵画2点、彫刻1点、計3点は郷土・広島県の作家でした。

  P3180017_2
本展覧会では文展創設から現代の日展まで、日本画、洋画、彫刻、工芸、書の各分野から代表作160点余り(前期、後期)が、文展、帝展、新文展、日展の名称(組織形態)別の4章に分けて構成してありました。 

  第1章「文展」については、「フランスのサロンをモデルに文部省主催により始まった展覧会が文展」と説明文があり、当時の主な作家として上村松園、黒田清輝、藤島武二などの作品が掲げてありました。 

  第2章「帝展」については、「審査体制への批判などから文展が廃止され、帝国美術院の創設により、展覧会の運営を美術家自身が担う帝展が始まりました」と説明文があり、当時の主な作家として川合玉堂、山口蓬春、北村西望などの作品が掲げてありました。

  第3章「新文展」については、「帝展の改革という混乱を経て、再び文部省が直営する新文展が組織されました」と説明文があり、当時の主な作家として鏑木清方、梅原龍三郎、吉田三郎などの 作品が掲げてありました。

  第4章「日展」については、「焦土と化した日本の希望の象徴として、戦後いち早く日展(日本美術展覧会)が開始されました」と説明文があり、当時の主な作家として東山魁夷、奥田元宋、棟方志功などの作品が掲げてありました。

  今回、1世紀に及ぶ日展のこれら多くの作家、作品の中で、これまで10回近く対面している作品に久しぶりに場所を変えて対面しました。  それは横山大観の代表作の一つである《漁夫》(足立美術館所蔵)です。

  足立美術館(島根県安来市)にはかれこれ20年余りにわたり、家人を伴ったり、仕事の行き帰りに車で訪れていますが、足立美術館以外で《漁夫》を鑑賞したのは初めてです。

  P3180009
大観の作品については、昨年5月に絵馬《屈原》(広島県廿日市市・厳島神社所蔵)を広島県立歴史民族美術館(広島県三次市)開催の「広島県の絵馬史」展で初めて鑑賞し、今年は《漁夫》を広島県立美術館の「日展100年」展で鑑賞したわけです。  大観フアンの私には別な場所で再会できて嬉しい1日でした

注:日展とその変遷の歴史
  日展(にってん)は、日本を代表する美術展覧会の一つですが、その名称は「日本美術展覧会」の略であり、またその展覧会を運営する団体(社団法人)の名前です。

  1907年に発足した文部省美術展覧会(文展1907-1918)から、帝国美術院展覧会(帝展1919-1934)、文部省美術展覧会(新文展1936-1944)、そして現在の日本美術展覧会(日展1946-)へと、名称、組織形態を変えながらほぼ毎年開催されて来た経緯について、今回の展覧会で初めて知った人も多いことと思います。

  このように政府主導の美術展覧会、すなわち「官展」の系譜を引き継いでおり、公募展の中では最高の権威といわれています。 この間多くの優れた作家を輩出しました。

《出 典》「日展100年」展案内チラシ(広島県立美術館)ほか

《ふるさとの地名俳句》【平和記念公園・原爆の子の像】
 鳥雲に裸像がまとう千羽鶴  秋山 花笠

|

2008年3月19日 (水)

■“残念!!”岡本太郎原爆壁画《明日の神話》設置場所は渋谷区に決定(岡本太郎記念現代芸術振興財団)-≪《明日の神話》広島誘致情報③≫-

◆人類最初の被爆地“ヒロシマ”市民・県民の《明日の神話》誘致への思い通じず(広島県広島市)
  既にマスコミ報道でご承知のとおり去る18日、《明日の神話》所有者の岡本太郎記念現代芸術振興財団理事会・評議員会は、《明日の神話》の寄贈先を東京都渋谷区に決定しました。 ともに誘致に動いた大阪府吹田市、広島市は選ばれませんでした。

  報道によりますと「設置環境、意義、受け入れ態勢などで総合的に判断した。渋谷に置かれるのが日本の財産であり、多くの人を元気にしてくれるだろう」と、同財団常務理事の平野暁臣・岡本太郎記念館長が語っていました(中国新聞08.3.19朝刊)。

  広島誘致をご支援いただいた全国の皆さんや広島市民・県民には、大変残念な結果に終わりました。 市民・県民の一人として皆様のご支援に感謝します。

| | トラックバック (0)

2008年3月16日 (日)

■【地域イベント】かつて“石見銀山”('07年世界遺産登録)からの銀の集積地として栄えた上下町に、新しい祭りを訪ねて(第3回上下ひなまつり)

◆幕府の天領として栄えた上下は歴史と文化の薫るまち(広島県庄原市上下町)
  平成の大合併により、町村が隣接した市に合併する例は多くありましたが、これまで私が仕事や地域活動で1980年代からたびたび通っていた総領町、上下町及び甲奴町は、合併前の「甲奴郡」(昭和の合併以降は3町で構成)から、庄原市総領町、府中市上下町、三次市甲奴町へと行政圏が変わりました。

3月上旬、総領町で節分草祭りを観てから、隣町の上下町で2年前から始めた“上下ひなまつり”を家人と観に行きました。

▼約1か月半に及ぶひなまつり期間、その中でメインイベント「でこ市」が2日間の開催
  083005
開催中のひなまつりの会場は、商店街を中心に約70軒以上の民家や店舗にひな壇や土人形が並んでいました。 沿道の民家や店舗に「おひなさま展示中」というポスターが目印です。
  通りの民家や店舗などの展示場に「上下ひなまつりマップ」が置いてあるので、それを手にして回りましょう。
  083004
当町では昭和初期まで、「デコ」と呼ぶ土人形などの春市が立っていた歴史があり、昨年復活したのがメインイベント「デコ市」で,今年は3月1・2日の2日間開催されました。。 

  当日は商店街を中心に55店余りの出店もあり、地元産品や地元産の牛肉とそば粉を使った新名物「上下ぎゅ~そば」なども販売されたようです。 

  ひなまつりマップには、その他に着付けレンタル、もち花(お餅を木の枝に花のように取り付ける)体験、押し花体験、お茶席、大正琴演奏、骨董市などの催しが挙がっていました。
  035
さて、私たちはひなまつりだけ観ましたが、さすが天領の土地柄だけあって、町家に飾ってあったのは280年前のおひなさまとひな飾りでした。  

他にも隣接の三次市の郷土人形(土人形)が飾ってあるなど、多種多様な雛と飾りつけがそれぞれ工夫してあり、楽しく拝見しました。
  038
  中には、飲食店の店頭に飾ってあったり、戸締りをした空き店舗や民家の店頭ガラス面のカーテンが開けてあり、外からガラス戸越しに眺めるひな飾りもありましたが、総数約70件に及ぶ展示は成功といえます。

   なお、ひなまつり期間が約1か月半というのは、当地方では数少ない長期間開催といえるでしょう。  

▼往時の栄華を偲ばせる白壁の街並みに似合う“ひなまつり”の誕生は新たな上下の魅力源  
  近年、各地のかつての城下町、天領などに歴史と文化が香る施設やイベントが復活したり、創設されたりしています。  

  当町では現在、イベント年間歳時記として次の9つのイベントを開催しています。  イベント好きの私は、これまで当町の過半数のイベントを観てきました。 

  3年前まで上下町のイベントは4月のかたくりまつり(町内の宇根の里3か所の群生地)から始まりましたが、2年前にひなまつりが創設されてから1か月早まりました。  これでイベントの無い月は2月、9月の2か月だけになりました。

《上下町の年度イベント歳時記》
  ●3月       ひなまつり
  ●4月       かたくりまつり
  ●5月       端午の節句まつり  
  ●6月       あやめまつり
  ●7月       上下涼彩まつりーゆかた縁日ー
  ●8月        じょうげ花火まつり
  ●10~11月   上下かかしまつり
  ●10月      白壁まつり
  ●12~1月    翁山世界一の夢のツリー
 
問い合わせ先:府中町観光協会上下支部 電話0847-62-4667

《ふるさとの地名俳句》【分水嶺】 ※上下町の中央に分水嶺が走り、一方の川は日本海へ、もう一方の川は瀬戸内海へと水が注いでいる。
 ほととぎす分水嶺の町明くる  中川 幸子 

| | トラックバック (0)

2008年3月14日 (金)

■岡本太郎《明日の神話》広島誘致への応援続々(《明日の神話》広島誘致会)-≪《明日の神話》広島誘致情報②≫

◆新聞報道に見る《明日の神話》広島誘致への応援情報(地元紙「中国新聞」より)  
  岡本太郎の壁画《明日の神話》の恒久設置誘致に、広島市、大阪府吹田市、東京都渋谷区の3時額が名乗りを上げていますが、いよいよ来る3月18日に所有者の岡本太郎記念現代芸術振興財団(東京都)が理事会を開いて、恒久設置場所を決定するようです。 広島誘致への吉報が待たれます。

 既報の《明日の神話》広島誘致情報①(08.1.18掲載)以降、広島市への誘致に関係した活動が地元紙「中国新聞」に次のとおり掲載記事がありました。 以下、列挙してみます。 

▼オノ・ヨーコさん応援メッセージ~広島にFAX届く(中国新聞08.2.7朝刊) 
 報道によると、「岡本太郎が描いた巨大壁画『明日の神話』について、故ジョン・レノンさんの妻でアーチストのオノ・ヨーコさんから(2月)6日、広島への設置を希望するメッセージが広島誘致会に届いた。 

 広島設置への賛同の声が徐々に広がっている。  メッセージはファクスで寄せられ、直筆で『この壁画を広島においてほしい』と記している」とありました。

  これは広島誘会が世界の著名人にメッセージを依頼していたのに、オノ・ヨーコさんがメッセージを送ってこられたものです。

▼「明日の神話」誘致~東京のお好み焼き店一役~パンフ置き盛り上げ(中国新聞08.2.7朝刊)
  報道によると、「岡本太郎の原爆壁画『明日の神話』の誘致を支援するため、東京都内の広島風お好み店が誘致団体のパンフレットを置くなど協力を始めた。都内で誘致に名乗りを上げている渋谷区に対抗して首都圏でも機運の盛り上げを図る」とありました。

 広島誘致会が広島市東京事務所を通じ、都内の約30店に協力を頼んだようです。

▼誘致へラストスパート~「明日の神話」広島で意見交換会(中国新聞08.2.9朝刊)
  報道によると、「岡本太郎が描いた巨大壁画『明日の神話』の設置場所決定を間近に控え、広島誘致会(高橋正敏会長)は8日、広島市中区のホテルで情勢報告会と意見交換会を開いた。  関心を持つ市民やマスコミ関係者が出席した」とありました。

  広島誘致会の活動はまだまだ続いています。  

▼「明日の神話」誘致、被爆地タッグ~長崎市、広島を応援(中国新聞08.2.16朝刊)
  報道によると、「長崎市は15日、岡本太郎が描いた壁画『明日の神話』を所有する岡本太郎記念現代芸術振興財団(東京都)に、広島市への設置を要請する文書を届けたことを明らかにした」とありました。

  長崎市も一時、誘致を検討したようですが、設置場所が確保できないなどのため断念し、同じ被爆地である広島市への設置を支援していただいたようです。 ありがたいご支援です。

▼岡本太郎「明日の神話」を広島に〔広島市内の企業35社による全面広告掲載〕(中国新聞08.2.28朝刊) 
  002
2月28日の中国新聞に「岡本太郎『明日の神話』を広島に」が、地元企業35社の協賛により別添写真のような全面広告が掲載されました。  写真はクリックすると拡大できますが、読みにくい部分もあろうかと思い、一部細足説明します。
  004
公告には巨大壁画「明日の神話」の写真に加えて、文面は「『明日の神話』とは…」(内容は、壁画のテ-マ、壁画の製作、展示の経緯など)及び「広島から誘致の名乗り」(内容のあらましは、被爆後半世紀以上が経過した今日、歴史の風化が懸念されているなか、「明日の神話」広島誘致は「明日の神話」ヘのスタートです)です。

  企業35社から「わたしたちも広島誘致を支援します」と協賛がありました。

《追 補》「明日の神話」展示期間延長(東京都美術館) 
 中国新聞08.2.27朝刊によると、「東京都現代美術館」(江東区)は、昨年4月から1年間の予定で特別公開している岡本太郎の原爆壁画『明日の神話』の展示を、6月29日まで延長する」と報じていました。

  前出のように「明日の神話」の寄贈先(恒久設置先)は3月18日に発表予定ですが、寄贈先への引渡しは7月以降になるようです。

  今回の特別公開期間中にもぜひ多くの人に観ていただきたいものです。

《ふるさとの地名俳句》 【広島市平和記念公園】
 花人になり切れざるも爆心地  湊 ひで子 .
  

| | トラックバック (0)

2008年2月18日 (月)

■【絵馬《屈原》公開情報②】公開の機会が少ない横山大観の絵馬《屈原》〔厳島神社所蔵〕が、「没後50年 横山大観」展へ展示中(国立新美術館)

◆近代日本画の大巨匠である大観の70年にわたる珠玉の名品回顧展開催中(東京都港区)

   本ブログで既報('07年6月)した厳島神社所蔵の横山大観の絵馬《屈原》が、現在開催中の特別展「没後50年 横山大観-新たなる伝説へ」展(国立新美術館で3月3日まで開催)に出展されています。
 
   会期半ばの展示替えで、2月13日から《屈原》《群青富士》《柳蔭(りゅういん)》などが新たに加わったことを美術館のHPで知りました。

   一般に、神社仏閣に収納安置されている仏像や美術工芸品は、盗難、火災、毀損防止などのため、拝観者の手の届かない場所へ置いたり、色彩の保存のため灯りを暗くするなどしてあります。

   しかし、これらの美術工芸品が美術館、博物館等へ貸し出しされた場合は、現地では観られなかった美術工芸品の裏面、側面を観ることができたり、現地では薄暗い灯りで拝観していた仏像が、貸し出し先の会場では黄金色にまばゆく輝いているのを観ることができるなどの発見があります。

   日本の誇る世界遺産「宮島」の厳島神社に、大観の名品の一つである絵馬《屈原》が掲げられていることを、もっと多くの人々に知っていただきたいものです。 

   ところが、厳島神社の絵馬《屈原》の場合は不定期公開以外は一般公開の機会が少なく、今回の美術館出展のような機会にしか鑑賞できません。  

   最近、世界遺産「宮島」を訪れる総観光客数は、平成18年が年間約284万人で、そのうち厳島神社参拝客は約155万人です(広島県調べ)。   所蔵元の厳島神社で絵馬《屈原》拝観の機会が殆どないのが大変残念です。         

《ふるさとの地名俳句》【厳島神社】
 厳島神社まむかふ冬日抱く  後藤 夜半 
※所在地、宮島町は平成の合併で広島県廿日市市に編入

  

| | トラックバック (0)

2008年1月18日 (金)

■岡本太郎の原爆壁画《明日の神話》を広島へ誘致運動(岡本太郎「明日の神話」広島誘致会」)-≪《明日の神話》広島誘致情報①≫

◆原爆壁画は広島市、大阪府吹田市、東京都渋谷区の3自治体が三つ巴で誘致運動中(広島市中区)

▼壁画《明日の神話》とは 
   1970年に開催された日本万国博覧会のシンボルタワー《太陽の塔》は、岡本太郎の代表作といわれています。  原爆壁画《明日の神話》(あすのしんわ)は、《太陽の塔》に次ぐ岡本の代表作(注①)と評されています。

  既にご存知の方もあるように、《明日の神話》は岡本が原爆の炸裂の瞬間をテーマに製作した巨大壁画(縦5.5m×横30m)です。  画面は悲惨な体験を乗り越え、再生する人々のたくましさを岡本独特のタッチで描いています。

▼現在、《明日の神話》の無償譲渡先を公募中
   先般来、所有者の岡本太郎記念現代芸術振興財団(東京都港区)が、全国の自治体に対して永久保存を条件に壁画の無償譲渡先を募集しております。 
 
    これまでに、人類最初の被爆地、広島市を始め、大阪府吹田市、東京都渋谷区の3自治体が名乗りを挙げて、それぞれ誘致合戦を繰り広げています。

現在、所有者の財団が候補先3地区を視察しており、去る9日には財団関係者が広島市を訪れて、広島市長から設置計画の概要説明を受け、建設候補地である中区広島市民球場隣りの市中央公園ハノーバー庭園を視察しました。  今年4月をめどに最終決定する意向のようです。

P1180006 なお、添付写真の誘致パネルは市民団体「岡本太郎『明日の神話』広島誘致会」が、壁画の実物大写真パネル(高さ5.5m、部分)を候補地に近い広島市民球場(現在、プロ野球カープ球団のホームグランド)の南隣りに設置して誘致の熱意をアピールしています。
  P1180002
同じく添付写真の原爆建物被害のシンボル、「原爆ドーム」は、広島市民球場前の道路向かい側の平和公園内にあります。


▼広島市に壁画を恒久設置する利点  
広島市は広島に壁画を恒久設置する利点として、①壁画のメッセージを鑑賞する地としてふさわしい、②平和のメッセージを世界に発信できる、③市民に熱意があるーなどを9日来広の財団側視察者に強調したようです。

  多くの被爆者、広島県民も同様に思っています。  《明日の神話》をぜひ広島市に誘致したいものです。

▼私は広島原爆投下当日(1945年8月6日)の目撃者の一人です
   これまで本ブログでは触れていませんが、私は広島原爆投下当日に原子爆弾がアメリカ空軍のB29爆撃機から投下された際のB29爆撃機の上空旋回及び爆発閃光とその後の原子雲(きのこ状の雲)の拡散を、広島市から約50km離れた山(標高約800m)の中腹から遠望しました。 その光景は今でも鮮やかに脳裏に焼きついています。

  当時、私は現在のJR芸備線沿いの農村に住んでいました。  国民学校(現在の小学校)5年生でしたが、その数年前から戦況が日本に不利の中で、私たちは男手のない出征兵士宅の農作業などに駆り出され、稲の田植え、草取り、稲刈り、麦撒き、麦刈り等を勉強の代わりにしていました。

  広島原爆投下の8月6日は、夏休みを返上して早朝から山の中腹で雑木の伐採作業を5年生全員で行なっており、その際に遠望の利く位置から私たちは原子爆弾の投下を見たわけです 

  当初は「新型爆弾」程度の認識で、人々は高熱による強烈な閃光と地面を揺るがす大音響の爆発音から「ピカドン」と呼んでいました。

 その日の午後から、鉄道の貨車を利用して高温で熱傷の死傷者が連日運び込まれ、静かな農村地帯は一転して悲惨な様相に変わりました。  

  その後の惨状については本稿で述べません。 ただし、私の気持ちは戦後相次いで発表された「原爆詩」(注②)が代弁してくれています。  その代表詩の一部を掲載します。
                 
        『原爆詩集』の序   
ちちをかえせ  ははをかえせ  としよりをかえせ  こどもをかえせ
わたしをかえせ  わたしにつながるにんげんをかえせ
にんげんの  にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを  へいわをかえせ   
  ~峠三吉『全詩集~にんげんをかえせ』より~
       
 ※女優吉永小百合さんの献身的な「原爆詩朗読」全国行脚には、被爆地広島の住民の一人として心から感謝しています。 

《注①:明日の神話》の変遷のあらまし  
 岡本の絵画では最も大きな作品。 1968年、岡本はメキシコに建設されるホテルのために製作開始、大阪万博の《太陽の塔》と平行して取り組む。

   1969年、ホテルロビーに仮設置して最終仕上げに入った後に、依頼者の経済状況が悪化して作品は不明となる。 2003年、メキシコシティ郊外の倉庫で作品発見。 

 2005年、メキシコにあった壁画を解体・梱包して日本に移送して、修復作業開始。  2006年、修復が完了し、7月に一般公開。

 2007年4月から2008年4月13日までの期間で東京都現代美術館において特別公開中。
《出典》フリー百科事典『ウィキペディア』ほか

《注②:原爆詩》
  広島の詩人、峠三吉《にんげんをかえせ》や栗原貞子《生ましめんかな》などに代表される詩集を指す。 その中には、峠三吉のように爆心地から3km離れた自宅で被爆して負傷後、原爆症に罹った被爆者もいた。

  最近では、'07年8月に長津功三良ほか編『原爆詩181人集~1945-2007』が刊行され、このたびその英語版も刊行された。

  なお、詩だけでなく文学全体で原爆について編著した市販書の一冊に、黒古一夫著『原爆は文学にどう描かれてきたか』(21世紀の若者たちへ4)八朔社、'05年刊がある。

  吉永小百合さんは原爆詩集『第2楽章・ヒロシマの風』、『第2楽章・長崎から』や『詩画集・小さな祈り』などの編書がある。

《ふるさとの地名俳句》【原爆ドーム】
 被爆ドームに冬来る瓦礫そのままに  藤岡 筑邨

| | トラックバック (0)

2007年12月18日 (火)

■【美術館巡り】雪月花の輝きーウッドワン名作展'07秋季ー光と影の饗宴展ーを観る(ウッドワン美術館)

西中国山地の標高600mにあり、別名「緑の風を感じる美術館」を訪ねて(広島県廿日市市吉和町)

ウッドワン美術館の概要
   011
ウッドワン美術館(当館と略する)は、11年前の1996年に木質建材メーカーの株式会社ウッドワン(旧住建産業)の所蔵する美術品約800点を展示・公開するために開館しました。   当館は高地に位置しており、原生林の残る自然豊かな好環境にあります。   そのため、当館の印刷物等では別名「緑の風を感じる美術館」と紹介されています。  
 
収蔵品は、次の5つのジャンルに分類され、①近代日本絵画、②マイセン磁器、③アール・ヌーボーのガラス作品、④中国清代の陶磁器、⑤幕末・明治の薩摩焼に分けられています。  なお、近代絵画は展示替えを行ないながら順次展覧し、野のほかのジャンルは常設展の方式になっています。 
  わが家では開館以来、年2~3回は訪れています。 
 
今年度の展示テーマは「ウッドワン名作展」(春、夏、秋、冬) 
   12月上旬の平日午後、当館は初めてである家人とその友人を伴って、「雪月花の輝きーウッドワン名作展'07秋季ー光と影の饗宴展」を観に行きました。   約3か月間の秋季展も終盤が近くなったせいか鑑賞客が少なく、いつもは館内で周りの人と大声で話す迷惑な人もいなくて、私は主に展示変えの近代日本絵画を2度、3度と繰り返して観ました。  

  秋季展は副題にあるように「絵画の中に表れた様々な光と影の表現に注目」して、近代日本画では「雪月花」や「花鳥風月」をキーワ-ドに、日本人の自然感や美意識に注目した作品が展示してありました。。  洋画では「人物像(裸婦画)、風景画における印影表現」といったテーマに、更に「作品に表れた画家の心象」というテーマを加え、光と影を見ることで個性的な画家たちの内面に迫る展示でした。

  所蔵の出品作品は約50点。その中には、広島県出身の児玉希望《月光》、横山大観《神嶺不二山》、東山魁夷《水辺に咲く》、岡田三郎助《花持てる裸婦》などがありました。

藤田嗣治の大壁画《大地》の数奇な運命とウッドワン美術館  
  一方、併せて展示してあった藤田嗣治の幅9mを超す大壁画《大地》の特別公開は、大きさだけでなくその壁画の流転にも関心を持ちました。  

  この大壁画《大地》は、藤田嗣治が日本でのコーヒー普及を企図していたブラジル大使館からの依頼で、戦前の1993年に竣工した東京銀座のビル1階ブラジルコーヒー宣伝部に、大壁画(ブラジル・リオ・デ・ジャネイロ付近の町から田舎、丘へかけて、コーヒー園を遠くに描いた)を1934年に製作したものです。

  大壁画がビル1階の周囲半分を埋め尽くしたので、出入りのために当初から壁画は2か所切り取られていたそうです。
  しかし、ブラジルの政変や国際情勢の不安を受けて、1940年春にブラジルコーヒー宣伝部は閉鎖され、《大地》はブラジルコーヒー宣伝部の責任者(コヒー王アッスムソン氏)によってブラジルへ持ち帰られました。
 
  その後も壁画が分断されるなどの数奇な運命をたどって、大壁画はようやく1971年に日本の地へ帰ってきました。  01年に名古屋市美術館で一般公開され、現在は当館の所蔵となっています。 

▼《毛糸肩掛せる麗子肖像》などの当館超目玉作品は、来春4月以降に展示予定
  002
読者の中で、当館が高額で落札した「岸田劉生の作品《毛糸肩掛せる麗子肖像》、ファン・ゴッホの作品《農婦》などをぜひ観たい」と考えている人は、残念ながら来春まで館内展示の予定がありません。(写真の絵画は複製)
   詳しくは、「ウッドワン美術館」へご照会ください。

《ウッドワン美術館》
電話:0829-40-3001

《コーヒー・ブレイク》当館別棟の軽食、喫茶店「カフェマイセン」 
 016
019_2 007
  当日は、当館に隣接した同系列「めがひらスキー場」の人工降雪機ゲレンデが営業しており、遠くは九州、四国などから来た大勢のスキーヤー、スノーボーダーが滑っていました。 

スキーヤー、スノーボーダーは別棟の食堂、喫茶に行く人が多く、スキー靴を履き替えなければ入れないカフェマイセンは美術館利用者が殆どです。   ショーウインドウに飾ってあるアンティークカップで、特別料金のコーヒーを飲むことができます。

《季節の短歌》 【枯山】
枯山に雪しらしらと降れりとふ枯山にすら人目遊ぶを  北原白秋
※夕方、美術館から帰宅の際に高原の枯山に雪が降り始めました。  私たちにとっては初雪でした。
  帰宅して『句歌歳時記』を紐解くと、白秋の枯山を詠んだ短歌が目に止まりました。

  

  

| | トラックバック (0)

2007年12月 9日 (日)

■【美術館巡り】中国山地の三次盆地でフランドル絵画黄金期の秀作「プラハ国立美術館展」を観る(奥田元宋・小由女美術館)

◆展覧会場は、日本で初めての“夫妻の美術館”(広島県三次市)

▼プラハ国立美術館展の鑑賞   
   028
先月、三次市の奥田元宋・小由女美術館(注①)で開催中の「プラハ国立美術館展~ルーベンスとブリューゲルの時代」を、家人とその友人を伴って鑑賞に訪れました。   奥田元宋・小由女美術館(当館と略する)には昨年の開館以来年に数回訪れていますが、今回は企画展であるプラハ国立美術館展が主な目的でした。

   プラハ国立美術館はチェコ共和国の首都プラハにあり、ヨーロッパ有数の美術館として西洋絵画の名品を多く所蔵しています。  本展では同美術館の所蔵品のうち、16世紀から17世紀にかけて描かれたフランドル絵画黄金期の秀作70点が展覧してありました。  

   17世紀のフランドル絵画には、ルーベンスとフリューゲルという二大潮流があり、本展ではルーベンスの作品《聖アウグスティヌス》やフリューゲルの作品《東方三博士の礼拝》などの宗教画を始め、風景画、風俗画、動物画と、あらゆるジャンルの作品が展示してありました。   宗教や風俗等の違いを超えた秀作で大変見ごたえのある展覧会でした。

▼奥田元宋・小由女美術館所蔵品の鑑賞 
   033
  当美術館のメインは奥田夫妻の絵画と人形の作品展示です。  元宋画伯は郷土広島県の先輩であった日本画家・児玉希望に師事して、後に赤が基調になった新朦朧体と呼ばれる作風「元宋の赤」(赤、というより深みのある「朱」)を創出して有名になりました。   06年春の開館記念特別展で初めて観た、「元宋の赤」の総仕上げとされる風景画の大作《山霊重畳》の強烈な初印象は、いつまで経っても忘れることができません。

   1944年戦火を逃れて、東京から郷里の現三次市吉舎町に疎開した元宋画伯は、時代考証やモデル探しが困難で、それまで手がけていた人物画の製作の中断を余儀なくされたそうです。  「これを機会に、花鳥画や本格的な風景画へと画風が転向した」(注②)ことを知りました。
   
   また、小由女夫人の繊細で優美な多くの人形の中に作品《月の別れ》があります。  「夫人によれば元宋画伯が亡くなった03年2月15日の夜は満月だったそうで、『奥田の体も魂もすべて月に迎えられて行ったのだという思いが強く実感された』(小由女夫人)という深い悲しみの中で、2年以上の歳月をかけて創作された作品」(注③)であることを知り、大変感動しました。

  当館は開館当初から、一般男女ペアを対象に「ペアチケット割引」を採用して人気を博しています。   また、元宋画伯の作品のモチーフとして登場する月に因んで、屋外の山の背後から上る月を鑑賞できるよう設計して、満月の夜は閉館時間を延長するなどのユニークな方法を取っています。  これらの方策は奥田夫妻の生き方や作品と密接に関連しています。

   更に、屋外大駐車場を挟んで「広島三次ワイナリー」などの公的施設があり、美術館と共に観光、交流の場としても人気があります。    

《注①》奥田元宋・小由女美術館 
  三次(みよし)市吉舎町出身の故奥田元宋(げんそう)画伯と、夫人で人形作家の小由女(さゆめ)さんの作品を公開する日本で初めての“夫妻の美術館”として、06年4月三次市東酒屋町にオープン。  夫妻が寄贈した代表作の絵画と人形56点を中心に展示の傍ら企画展などを実施。 

  元宋画伯は1963年満50歳で日本芸術院賞を受賞し、61歳で日本芸術院会員に推挙され、1984年文化勲章受賞の栄誉を受ける。  2003年永眠。享年90。
   小由女夫人は同郷の出身で人形作家として活躍し、元日展工芸の理事、日本芸術院賞受賞等の経歴あり。
 
《注②》奥田元宋・小由女美術館開館展作品紹介①
中国新聞06.4.18、当館松原学芸員寄稿文より引用

《注③》奥田元宋・小由女美術館開館展作品紹介⑤
中国新聞06.4.25、当館松原学芸員寄稿文より引用

【奥田元宋・小由女美術館】 
電話:0824-65-0010

《ふるさとの地名俳句》【霧の海】
馬洗川下れば三次霧の海  上杉静梢
※内陸の四囲を山々に囲まれ、三つの川が市内で合流する三次盆地は、秋から早春にかけての約100日間、早朝になると盆地一帯が深い霧の海に覆われて、街は霧の海に沈みます。  地域によっては昼前まで太陽が現れません。

  三次市に隣接する、私の第2のふるさと(生後6か月から20代半ばまで居住)安芸高田市のほぼ全域も盆地域内です。 
 高所から眺めると、山々が海に浮かぶ小島のように、霧の海の波間に見え隠れする景観はまさに幻想的です。 
 

   

  

   
   
   

| | トラックバック (0)

2007年6月 5日 (火)

■【絵馬《屈原》出展情報①】厳島神社所蔵の横山大観の絵馬《屈原》に、外部の特別企画展で逢えて感激(広島県立歴史民族資料館) 

◆所蔵元で観覧機会が少ない絵馬《屈原》を、借り出し展示中の資料館で観る(広島県三次市) 
Dsc00907   5月既報のブログ「始皇帝と彩色兵馬俑展」(広島県立美術館)を観に行った際、会場に飾ってあった横山大観の大作のひとつである「屈原」(絵馬として厳島神社に奉納)は、残念ながら写真パネルでした。 

   既報ブログの中で触れたように、当時同じ県内の三次市にある県立歴史民族資料館で開催中の特別企画展「神々に捧げられた絵画」ー広島県の絵馬史ーで、厳島神社から借り出して展示でした。  そこで、私はぜひ観たくなって5月末に歴史民族資料館を訪れました。
     Dsc00899
   私が生まれたのは旧広島市ですが、生後6か月頃から20代半ばまで三次市に隣接している芸備線沿いの現・安芸高田市に住んでいました。   そのため、中学生の頃は広島市よりも距離的に近い、当時の三次市へ買い物や親戚を訪ねて、よく鉄道を利用していました。  
   Dsc00900
   館内には特別企画展以外に歴史、民族に関する常設展示室がありました。  常設展会場には私が子供の頃から知っている地域の歴史、民族資料が立体模型、イラスト図、説明文等で展示してありました。  
   特に三次市内を流れる江の川の鮎釣りや夏の鵜飼いの風景は懐かしい思い出です。 
  Dsc00896  
   さて、肝心の特別企画展は副題が「広島県の絵馬史」です。   県内の神社に奉納された有名、無名の絵師、画家などの作品が43点ほど展示してありました。   時代は奈良時代から江戸時代までです。 
 
   特別企画展のチラシに「古来より、神仏祈願や祈願成就の御礼として方のされてきた絵馬は、その画面に様々な物語や出来事を描き、単なる奉納物以上の親近感や存在感を私たちに与えてくれています」と解説がありました。   画面の内容も、所期の絵馬は文字通り馬を描いたものが多いですが、やがて様々な情景が描かれるようになりました。

   今回の絵馬の中には、わが国を代表する絵師、画家の丸山応挙「虎図」、長沢蘆雪「絹本着色山姥図」(重要文化財)、横山大観「屈原」や広島市出身の小林千古「誘惑」、安芸高田市出身の児玉希望「白鷹図」などの作品があり、それぞれの画風や内容が見受けられました。

   冒頭に述べた「始皇帝と彩色兵馬俑展」(広島県立美術館)に写真パネルで掲示してあった横山大観「屈原」は当館では実物です。   展示室の係員が「所蔵元の厳島神社に行かれても、年間の公開期間が少なく観る機会が少ない」と話してくれました。   同伴の家人は厳島神社へ数十年間にわたって年数回お参りしていますが、これまで神社で拝観の機会がありませんでした。 

   屈原については、既報「始皇帝と彩色兵馬俑展」ブログの「コーヒー・ブレイク」欄で述べていますが、実物を至近距離でゆっくり観ることができて、モデルの屈原の心境(二度の左遷の悔しさ)と作者大観の心境(美術学校恩師追放の悔しさ)が伝わってくるような感じがしました。  

   当館に私は今回で2度目の来訪でしたが、良い機会に訪れました。  特別企画展は6月10日まで。

《広島県立歴史民族資料館》問 0824-66-2881 

《ふるさとの地名俳句》【三次鵜飼】
夜な夜なの狭霧を啼いて鵜が戻る  丸本 十九瓶
※三次市の鵜飼いは、当地方の夏の納涼行事として有名


 

| | トラックバック (0)

2007年5月18日 (金)

■【美術館巡り】彩色が残る兵馬俑を世界で初公開「始皇帝と彩色兵馬俑展」~司馬遷『史記』の世界(広島県立美術館)

◆2000年もの時空を越えて、ロマン薫る驚異の地下帝国がやってきた(広島市中区)
GW明けの5月中旬、4月上旬から開幕していた「始皇帝と彩色兵馬俑展」を広島県立美術館へ観に行きました。   本展は中国間放送局55年・中国新聞創刊115周年記念事業として開催されたものです。
   Dsc00814   
中国陝西省から2000年もの時空を超えて、秦・前漢時代の貴重な金銀の装飾品など124件(日本初公開を多数含む)が広島にやってきました。  特に1974年に陝西省西安市郊外の始皇帝稜(注①)の周辺の土中から、兵士や馬の焼き物「兵馬俑」が発見され、現在では8000体以上あると推定されています。

Dsc00823_3 本展は世界初公開の彩色兵馬俑を柱とし、司馬遷(注②)が書いた中国の歴史書「史記」の世界をたどる展観です。  史記が描いた春秋戦国時代の紀元前770年から、秦の始皇帝による統一を経て、前漢・武帝紀元前87年までの700年に光を当てています。 会場には春秋・戦国時代から漢代にかけて作られた金製品や玉製品、壁画も展示中です。  
  Dsc00815   
特に、1999年に出土した全身に彩色を施した兵馬俑8体は、顔は肌色、よろいの紐は赤、脚絆は黄緑、靴下は白、靴は黒ーという鮮やかな「色」をしていました。     その2200年前の彩色が奇跡的に全身に残る彩色兵馬俑のうち、保存状態が最もよい「跪射俑」(きしゃよう=跪いて弓を射る姿勢の兵士の俑)1体が展示されています。  この貴重な跪射俑の海外展示は日本とドイツのみと聞きます。
  
一方、中国の歴史や漢詩に興味のある私は歴史書『史記』を完成させた偉大な史家・司馬遷に関する展示にも関心を寄せました。  会場には司馬遷の『史記』が描く古代の姿を多角的に紹介するため、横山大観「屈原」(注③)絵馬の写真パネルなどが併せて展示してありました。  憂国の大詩人・屈原はまさに史記の世界にぴったりでした。
   Dsc00821 

Dsc00822 最後に、当館に隣接している国の名勝・縮景園(広島県の有料施設)の当館側からの出入口と縮景園の風景の一部を写真でご紹介します。  本展覧会は5月20日まで

注①【始皇帝陵】 (しこうていりょう) 中国を最初に統一した秦の始皇帝(紀元前259-紀元前210年)が、栄華を永遠にと願って始皇帝陵(陝西省世西安市郊外)を設営。 築造には36年間も続き、陵内は豪華を極め、珍しい宝物がいたる所に満ちている。 

   司馬遷の『史記』に記された始皇帝の地下宮殿が、2002年からの科学調査で始皇帝陵の地下30mに実在することが裏づけられたり、「宮殿にあった奇器珍怪で満たした」「水銀で長江と黄河と海を再現し、機械仕掛けで流れるようにした」などの記述も現実性を増しているようである。

注②【司馬遷】 (しばせん・紀元前145?-紀元前86?) 司馬家は代々史家(史官)として王室の記録係を務めていた。   司馬選は漢の武帝の下で歴史の記録を司る大使令という役職と後に『史記』の一部となる未完の通史を父から引き継いで務めていた。
 
   あるとき匈奴征伐に赴いた軍が大敗し、指揮官自身が捕らわれの身になってしまった。  このことに関して武帝から指揮官の責任について問われた際、この部隊はいわゆる囮部隊で初めから勝ち目はなかったので「指揮官に罪なし」と弁護したため、老境にあった武帝は激怒して司馬遷に死罪を命じた。

   しかし、父の遺言である歴史書を完成するためにはどうしても生き延びねばならない。  当時の漢では、莫大な贖罪金を納めるか、官刑(去勢される刑)を受けることで死刑を逃れることができた。  財貨によってわが身を救う手立てのない司馬選は官刑を選び、生き恥をさらしても父の遺言である歴史書を完成させる道を選んだ。
  やがて出獄した司馬選は、後に中書令という要職に就き、渾身の思いで歴代王朝から漢初まで130篇、総字数52万6500字に及ぶ歴史書『史記』を完成させた。

注③【屈原】 (くつげん・紀元前340ー紀元前277年) 楚の王族出身。 最初は楚の懐王の相談役として国事を預かり、信任も厚かった。  これが周囲の妬みを買うこととなり、奸臣の讒言を聞いた懐王が屈原を疎んじるようになった。  そのことを知った屈原は、失望しながら国を憂い、『離騒』という詩を詠んでいる。

   懐王の死後、長男が即位して襄王となったが、襄王もまた父王同様に中傷を真に受けて、屈原を辺地に追放した。  追放された屈原は辺地をさまよい、髪を振り乱し、身体は枯れ木のようにやせ衰えていった。  長い放浪の末、祖国楚の滅亡を知った屈原は、悲しみと身の潔白を明かすため『懐沙の賦』という詩を作り、深淵に入水自殺を遂げた。  
《出 典》中国新聞「始皇帝と彩色兵馬俑展」特集記事、『史記・春秋戦国人物事典』新紀元社

《広島県立美術館》  問:082-221-6246

《コーヒー・ブレイク》【横山大観絵馬「屈原」厳島神社蔵の意味するもの】 
     Dsc00847_1
  横山大観「屈原」は、屈原の当時置かれた境遇を見事に描いてあり余りにも有名です。  この絵画は厳島神社に奉納されていますが、大観は「屈原」について「当時反対派の陰謀により東京美術学校校長の座を追われ罷免させられた恩師・岡倉天心の心中を、屈原のそれに重ね合わせて画題として選んだ」と述べています。

   この展覧会チラシは部分ですが、絵馬の全体図は屈原の心中が画面一杯に表現され、観る者を圧倒する悲壮感が漂う名作といわれています。  
※「屈原」の絵馬は「神々に捧げられた絵画~広島県の絵馬史~」三次市の広島県立歴史民族資料館において6月10日まで特別企画展開催中 。

《広島県立歴史民族資料館》問:0824-66-2881
                                 


 
  

| | トラックバック (0)

2007年4月 6日 (金)

■【美術館巡り】美術番組の草分け的存在のNHK「日曜美術館30年展」を観て(広島県立美術館)

◇~名品と映像でたどる、とっておきの美術案内~に癒されたひととき(広島市中区) 
  1976年4月から放送されたNHK「日曜美術館」は、97年に「新日曜美術館」への改称を挟みながら、美術番組の草分け的存在として、長年にわたり私を含めた多くのファンに親しまれてきました。 

   このたびNHK「日曜美術館」が放送開始30周年を迎えることとなり、その記念展が企画されて2006年度は東京、京都に続いて、去る2月15日から3月25日まで広島県立美術館で開催されました。 私は家人と終了間際の3月下旬に出掛けました。
   Dsc00720
当番組は「美術をより分かりやすく、親しみあるものとして伝えたい」と始まったそうです。  広島会場の「日曜美術館30年展」の作品は71点で、その内容は、
▼第一章:夢の美術案内  著名な文化人が「私と作家」というタイトルで、作家や作品について思いを存分に語る珠玉の美術案内でした。
  ☆対象の作家:黒田清輝、鏑木清方、ゴヤ、ルノワール、ピカソほか

▼第2章:作家が作家を語る  交友関係や師弟関係のある作家が語る美術案内で、製作に関わる者でなければ気づかない視点からの語り口が魅力的でした。
  ☆対象の作家:藤島武二、上村松園、棟方志功、高村光太郎、モネほか

Dsc00712 ▼第3章:アトリエ訪問  作家自身が語る等身大の美術案内で、作家の製作風景を紹介する「アトリエ訪問」は、ふだん作家のアトリエを拝見できない一般人にとっては大きな魅力でした。
  ☆対象の作家:中川一政、岡本太郎、浜田庄司ほか 

▼第4章:しられざる作家へのまなざし   日曜美術館で再確認された作家たちの紹介で、当番組が優れた個性豊かな作家の「発掘」に力を注いできた様子がうかがえました。
  ☆対象の作家:丸木スマ、小泉清、田中一村ほか

となっており、30年の間に放送された映像の中から特に印象に残る作品や作家を取り上げてありました。 
 
   当番組はこれまでの放送回数は1550回を越え(06.6現在)、古今東西、美術に関するあらゆるテーマを取り上げてきました。  これからもより一層内容充実の長寿番組を期待します。
   
  なお、07年度の巡回展予定は07.4.7(土)~5.13(日)於:岩手県立美術館、5.26(土)~7.1(日)於:長崎県美術館、7.24(土)~8.31(金)於:静岡県立美術館のようです。

《ふるさと地名俳句》【縮景園】
亀の背の乾きて林泉(しま)の桜まじ 中村 由子
※縮景園…当美術館に隣接している国の名勝庭園。  美術館受付で美術館と縮景園共通の入場券発売中。


  

| | トラックバック (0)

2006年10月30日 (月)

■【美術館巡り】近代日本の異色の文人画家「富岡鉄斎展」を観て(ふくやま美術館、ふくやま書道美術館)

◇美術館、書道美術館の2会場で開催(福山市)  
Dsc00137_1 先月、福山市へ特別展「よみがえる源氏物語絵巻」(広島県立歴史博物館)を観に行きましたが、その際に隣接のふくやま美術館で10月上旬から「富岡鉄斎展」の開催を知りました。  そこで、10月下旬の平日に家人と観に行きました。

  「富岡鉄斎展」 は、兵庫県宝塚市にある清荒神清澄寺の鉄斎美術館所蔵の書画の名品を中心に、絵画をふくやま美術館、書をふくやま書道美術館の2会場に別けて同時開催されました。 富岡鉄斎(1836-1924)の青年期から晩年にいたる作品(絵画、書、器玩など)前・後期、あわせて約160点余りの作品が一同に会する機会は、めったにないそうです。
  Dsc00170_1
鉄斎は幕末、明治、大正の時代を生きた最後の文人画家と評されています。  63歳の時に描いた名作「富士山図」屏風を始め、77歳の時の「青緑山水図」(前期展示)などに代表される、詩書画を一体化させた超俗的な「仙境図」と呼ばれる作品群は、89歳で亡くなった後も高い評価を受けているといわれています。

鉄斎の作品の主題の多くは、中国や日本の歴史、故事、逸話などから引いた物語や人物、あるいは東洋画に伝統的な山水画を多く描いています。 京都生まれの鉄斎が、幕末期に儒学や国学、仏教、心学を学んで体得した教養が、作品の主題と深く関わったようです。 

Dsc00160_1 展示品の文中に、鉄斎の座右の銘は「万巻の書を読み、万里の道を行く」とありましたが、古今の典籍に親しみ、日本全国を旅して自然の写生を実行した経験が、詩書画の作品に活かされていました。
  「富岡鉄斎展」は11月26日(日)まで開催。

財団法人ふくやま芸術文化振興財団《ふくやま美術館》
◇所在地:広島県福山市西町二丁目4-3
◇電 話:084-932-2345
◇休館日:月曜日 

財団法人ふくやま芸術文化振興財団《ふくやま書道美術館》
◇所在地:広島県福山市西町一丁目1-1 福山ロッツ8F
◇電  話:084-991-5112
◇休館日:月曜日 

<
《ふるさと地名俳句》【ふくやま美術館】
初茜女神の像におよびけり  尾崎高子

| | トラックバック (0)

2006年10月19日 (木)

■【歴史博物館巡り】900年を経て復元模写、特別展「よみがえる源氏物語絵巻」を観て(広島県立歴史博物館)

◆2館所蔵の平成復元絵巻のすべての巡回展(福山市)
  9月下旬の平日、西日本で初公開された特別展「よみがえる源氏物語絵巻」~平成復元絵巻のすべて~を、家人と車で福山市にある県立歴史博物館へ観に行きました。 あいにく後数日で閉展するため来場者が多く、入場券売場で並んで待ち、会場に入ったら展示物の前に人垣ができていました。
 
Pa190015 今回の特別展は、徳川美術館と五島美術館の2館が所蔵している国宝「源氏物語絵巻」が、すでに900年の長い歳月を経て剥落や褪色が生じているため、平成11年から所蔵館を中心に、先端の科学技術などを駆使して、当初の姿に復元模写する事業が進められてきた経緯があります。その結果、絵巻19図の復元模写が平成17年10月に完成し、各地で巡回展が開かれています。

 会場には国宝の絵画を最新の技術で調査して日本画家が復元模写した「平成復元絵巻」が、平安朝後期(12世紀前半)に製作されたと考えられる、現存最古の絵巻物19場面の実物写真と対比して公開されていました。

 剥落や褪色が生じている国宝「源氏物語絵巻」だけでも十分魅力ある作品ですが、加えて色鮮やかで美々しい「平成復元絵巻」が対比展示してあるため、両作品の絵巻を観ながら文面を読む必要から、作品の前で鑑賞者の足が止まってしまうのも無理はありません。
 Pa180008
今回の復元模写は、できる限り原本と同じ素材、同じ技法で製作するという基本理念で、細部まで忠実に再現するのが製作意図といわれています。 館内には近世から現代にかけて製作された、国宝「源氏物語絵巻」と「紫式部日記絵巻」の模写の紹介や復元複写の製作過程などが展示してあり、こちらも大勢の人が展示物の前に足を止めていました。 

  当会場では広島県内に所在する源氏物語の世界に関わる資料を特別に展示してあり、重要文化財 七弦琴(平安時代 厳島神社蔵)、尾道市重要文化財 源氏物語扇面張屏風(室町時代 浄土寺)などを観ました。 
  これまでNHKの番組などを通してしか観ることのできなかった19図の復元模写絵巻が、広島県内において直接この眼で見ることができて感激でした。

Dsc00128
帰宅してから、改めて源氏物語の成立・内容・構成などについて子供の高校時代の国語副読本を読み、源氏物語の舞台となった当時の平安京や宇治について瀬戸内寂聴著『歩く源氏物語』(講談社)を拾い読みしました。

  前出書は「紫式部ゆかりの地と『源氏物語』の舞台へ誘う詳細な地図案内」(裏帯封の宣伝文)で、これから『源氏物語』を呼んでみようと思う人には好著といえます。 拙宅には寂聴フアンの家人が買い求めた瀬戸内寂聴訳『源氏物語』全集10巻が書架に並んでいます。
 
《広島県立歴史博物館》 
◇所在地:広島県福山市西町2-4-1      
◇電  話:084-931-2513
◇休館日:月曜日

《ふるさと地名俳句》 【草戸千軒町遺跡】
水引の紅よじれつつ末枯るる   菅本政子
※当館は、福山市を流れる芦田川の川底に埋もれた鎌倉時代から室町時代にかけて繁栄した「草戸千軒町」の遺跡を中心に、瀬戸内地域の民衆生活と文化に視点を当てた博物館として、1989年に開館しました。  館内には「瀬戸内の歴史をたどる」「よみがえる草戸千軒」「出土品は語る」の常設展示室があります。

<

| | トラックバック (0)

2006年9月 7日 (木)

■【美術館巡り】小説だけじゃなかった多才な文豪「森鴎外と美術」展を鑑賞(島根県立石見美術館)

◆昨年10月オープンから、約10か月ぶりに再訪(益田市)
 Pic000218
当館へは昨年10月オープンの際の初訪問以来、約10か月ぶりに家人と車で訪れました。軍医総監にして文豪であった森鴎外(1862-1922)を主人公にした「鴎外と美術」展は、7月中旬から私たちが訪れた8月下旬までの開催でした。

 今回の展覧会では軍人、医学者、小説家であった鴎外の、もう一つ知られざる横顔である美術とのかかわりについて、時には厳しい評論家として、時には良き理解者として、美術家たちと共に明治、大正時代を歩んだ鴎外の足跡が展示してありました。なお、出品作品は洋画、日本画、彫刻、書籍、資料の約250点で、期間中に展示替えしたようです。

 本展覧会の構成は第一部、第二部に分かれており、第一部は「原田直次郎と共に~芸術で結ばれた友情」となっております。その内容は
〔出会い〕 鴎外が美術に目覚めたのはドイツ留学時代といわれます。本コーナーでは留学先のミュンヘンで隣に住んでいたアカデミーの教授やその弟子の日本人留学生、原田直次郎(岡山県笠岡市出身)との出会いが、鴎外に美術へ目を向けさせる契機となり、西洋美術への見識を深めることになったと説明してありました。

 _004_1
鴎外の生涯の友となった原田の留学中の作品「靴屋の阿爺(おやじ)」(重要文化財)、「風景」(今回の案内パンフレットの表紙写真)や帰国後の作品に加えて、ドイツでの原田の恩師の作品(日本国内所蔵)なども展示してありました。

 そのほかに、〔戦友〕帰国した原田らが欧化主義の揺り戻しで、洋画が排斥されるようになったことがありました。その際、鴎外は原田ら洋画家を評論によって擁護する一方で黒田清輝らを公平に評価し、当時の論壇をリードしました。
 本コーナーでは新派の黒田らと旧派の原田らが対立した頃の、両陣営の主な美術家の作品が展示してあり興味深く鑑賞しました。

〔想い出〕生涯の親友、原田が1898年に36歳の若さで没した10年後、鴎外は回顧展の開催と画集の発行を企画し、見事に実現しました。美術展のプロデュースを手がけたのです。本コナーには原田の遺作とその仲間たちの作品が並んでいました。

 第二部の「鴎外の多面性~芸術がもたらした栄光」では、
〔軍・医〕鴎外の軍と医学の関係などの展示、
〔展覧会・博覧会〕鴎外の美術・博物館の役職、権威に登りつめた事績の展示、
〔交遊録〕美術界の重鎮から無名の若者まで、鴎外の多彩な人脈がうかがえます。
 今回の「鴎外と美術」展は、鴎外の知識、行動、情熱などの多面性を知ることができて大変有意義でした。

 ところで、先年来の全国的な市町村合併により、当美術館のある益田市は、森鴎外の出身地、島根県津和野町と隣り合わせになりました。

 鴎外は1922年61歳の時、病床にあって「余は石見人 森林太郎(本名)として死せんと欲す」と遺言の代筆を頼み、3日後に死去しました。建立された墓碑には遺言により一切の栄誉、称号を排して「森林太郎の墓」とだけ刻されたそうです。
 石見地方の人々は「鴎外の故郷は石見の地」と心から受け止めて、鴎外が同郷人であることを誇りに思っているようです。

《ふるさと俳句》 【津和野町】それ故に 津和野なつかし 鴎外忌  高浜虚子



| | トラックバック (0)

2006年7月 6日 (木)

■【文字の宝石】生きているもう一つの象形文字“トンパ文字”に親しむ(トンパ文字添付)

◆トンパ文字との出会い
T0107_2
本ブログに5月中旬から、中国雲南省ナシ族が祭祀などに用いるトンパ文字の添付を始めましたが、早速ブログを読んだ友人、知人から「トンパ文字添付で、堅いブログ文に柔らかみが出た」などと、褒めたり貶したり相半ばするメ-ルが数通届きました。(冒頭の象形文字の説明は文末)

 私がトンパ文字に初めて出会ったのは、ある飲料会社のCMに登場したパッケ-ジ文字で、男性が四股を踏んでいるような格好でした。 しばらくして、雲南省ナシ族が祭祀などに用いているトンパ文字と知りました。そこで、トンパ文字のCD付き入門書(注)を買い求めて、数年前から独学で親しんできました。その後、トンパ文字をPC上で本格的に活用できるソフトを使って、今年5月からブログに添付しました。

象形文字としての漢字とトンパ文字
紀元98年に後漢の許慎が『説文』という字典を表し、漢字の成り立ち方を六種の原則(六書という)に分けて説明しました。六書とは、①象形文字(日、月など)、②指事文字(上、下など)、③会意文字(信、武など)、④形声文字(江、河など)の基本四原則に加えて、⑤仮借文字(当て字)、⑥転注(令~長)の補足二原則、合計六原則です。

文字以前の段階である絵文字を別にすると、最古の文字は象形文字(形を象〔かたど〕るという意味)といわれます。成立以来4000年以上経てきた漢字は、一般には象形文字であり、現在では甲骨文字→金文→篆書→隷書→楷書と、字体が変遷してきたものと考えられています。

P5130154_1
中国において、近年“生きているもう一つの象形文字”と呼ばれているトンパ文字は、もともと自然を模写した象形文字ですが、漢字と大きく違うのは記号化が進んでおらず、そのぶん絵画性を濃く残しているという点です。

トンパ文字は本来手書きですが、本稿では開発されたPCフォントで表示しています。トンパ文字の大きな特徴の一つに、色を使って意味を補う方法がありますが、本稿ではまだ補色は用いていません。

  なお、トンパ文字の成立時期についてはまだ定説がなく、一説では10世紀頃ではないかといわれています。一方、トンパ文字の名称が確定したのは、今から約10年前のことといわれています。

トンパ文字に何を学ぶか
私がトンパ文字に強く惹かれたは、入門書の表紙カバ-に記入してあった「トンパ文字の背景にある世界観や文化には、現代人が忘れかけている一体感や純粋な心があふれています。本書によって、トンパ文字に表現されているユ-モアや知恵をお伝えすることができれば幸いです」の一文でした。
 
私は、 まだ「トンパ文字の背景にある世界観や文化をお伝えする」までには至りませんが、本プログにトンパ文字わずか一文字の添付ながら、「ユ-モア」「智恵」について少しはお伝えできたかと思います。
自動車のハンドルに“遊び”があるように、本ブログにも“ゆとり”を持たせるため、今後も適宜トンパ文字を添付していく所存です。

【注】
トンパ文字入門書
 王超鷹著『トンパ文字伝説~絵のような謎の文字』マール社

【象形文字の説明】ナシ族のトンパ(祭祀を司る人=祭司)を意味します。トンパが祭祀などに用いる文字を、トンパ文字と呼んでいます。 現在、トンパ文字を 熟達して使える人は、雲南省麗江県(ナシ族自治区・人口約25万人)でもわずか数十人 のトンパ(祭司)達だけといわれています。

| | トラックバック (0)

2006年4月 2日 (日)

■【美術館巡り】戦没画学生の絵画・遺品展に鎮魂の列(尾道市立美術館)

◆「戦後60年『無言館・遺された絵画』展」(広島県尾道市)
当美術館は1980年開館しましたが、その後2003年に建築家安藤忠雄の設計による改修工事が終り、尾道市が一望できる千光寺公園内にリニュ-アル・オ-プンしました。特別展・企画展を中心に開催し、所蔵品の展覧は企画展を通して紹介しています。私は03年以降、たびたび家人と訪れています。

 以前から新聞等の報道で、日中戦争、太平洋戦争で、卒業後、もしくは学業半ばで、戦地に駆り出され戦死した画学生の、遺作や遺品が展示してある私設の戦没画学生慰霊美術館「無言館」(1997年長野県上田市に開館)のことは知っていました。しかし、長野県までは遠いため鑑賞を諦めていましたが、2度とない機会が訪れました。

P5130005_1
今回の「無言館・遺された絵画」展は、戦後60年になる05年2月5日に東京ステ-ションギャラリ-を振り出しに、06年2月5日の尾道市美術館で1年間続いた最後の展示を終えるということなので、1月下旬に家人と訪れました。当日は会期も終りに近いため、団体、グル-プ等の人々で小部屋に区切られた尾道市立美術館の展示場は混雑していました。

しかし、館内の人々は戦場に散った58人の若い画家たちが描き残した妻や恋人、父母や姉妹の肖像、ふるさとの風景など、約130点の絵画、遺品とそれに添えてある短い文言(「あと5分、あと10分この絵を描かせてくれ…小生は生きて帰らねばなりません。絵をかくために…」、「お姉さん…生きて還ったら僕をパリに行かせてくれますか…」、「原子爆弾が投下された翌日、父親は歩いて広島まで行き、守之輔を探し病院で見つけた」など)の前に足を止めてじっと見入っていました。
 また、2階ロビ-に置いてあった「無言館 来館者ノ-ト」には、展覧会場の戦没者の遺品の便りや遺族のコメントを読んだ鑑賞者が、それぞれの思いをノ-トに書き綴っていました。

中国新聞06.1.15日朝刊の特集「無言館・遺された絵画展」によりますと、戦場に散った若い画家たち58人のうち、中国地方にゆかりのあった人は7人でした。お名前は小野春男氏(笠岡市出身の日本画家・小野竹喬氏の長男)、手島守之輔氏(竹原市出身)、中野益夫氏(旧制広島高等工業学校卒業)、松岡俊彦氏(旧制徳山中卒業)、久保克彦氏(山口県平生町出身)、原田新氏(周南市出身)、小柏太郎氏(出雲市出身)です。

P5130008_1
中でも、原田氏と久保氏は徳山中時代からの親友で、共に東京美術学校(現東京芸大)に進み、原田氏は油画科、久保氏は工芸科図案部に学び、繰り上げ卒業して入営し、原田氏24歳、久保氏25歳で戦死しました。
尾道市立美術館に近い竹原市出身の手島氏(東京美術学校油画科卒業)は、結婚して東京にアトリエを持っていましたが、開戦後、実家のある竹原に戻り中学校の美術教師となりました。1945年8月1日、臨時招集で入営。同6日広島市で原子爆弾により被爆し16日に31歳で戦病死しています。手島氏の遺作はふるさとの「吉名岬風景」です。

無言館館主・窪島誠一郎は尾道市立美術館での開幕記念講演の際に、来館者へのメッセ-ジの中で「無言館は反戦平和の美術館とうたわれている。しかし、彼らが平和運動とか反戦平和のために描いた絵など1枚もない。ある者は妻を描き、恋人、父母、妹を描いて戦地に発(た)った。自分のかけがえのない命が身近な命によって支えられているという、存命の喜びがそこには記されている」と話されています。(中国新聞06.1.15朝刊特集)

戦後61年目を迎えた今日、97年に開館した無言館には遺族による寄託希望が続いて収蔵品は資料なども合わせ600点を超えるそうです。 遺された絵画の平和の意味問いかけに私たちは応えなければなりません。 

参考文献:窪島誠一郎著「『無言館』の坂道」平凡社、窪島誠一郎著「無言館ノオト~戦没学生へのレクイエム」集英社新書
 
《ふるさと俳句》【千光寺】 鳶の巣の営み低し千光寺 阿波野青畝
※美術館の近くにある千光寺(真言宗)は大同年間(806~810)に多田満仲の創建と伝えられる古刹。

| | トラックバック (0)

2006年4月 1日 (土)

■【美術館巡り】児島虎次郎の出身地に備中地方の芸術拠点(高梁市成羽町美術館)

◆「常設展」を観て(岡山県高梁市)
これまで成羽町へは1990年頃から吹矢地区のベンガラを使ったカラフルな家並みや備中神楽などを観にたびたび訪ねていました。昨年の12月中旬、前夜に市内商工会地区青年部員を対象の講演を高梁市福祉会館(市内成羽町)で行なった際に、隣接して成羽美術館があったので翌朝宿泊先の高梁市内のホテルから直行しました。

当美術館は1953年岡山県下第1号の町立美術館として開館しましたが、その後現在の美術館は建築家安藤忠雄の設計により1994年新築開館しました。成羽町が高梁市へ04年10月に合併したため、現在は高梁市成羽町美術館と館名が変わりました。05年10/8~11/27に、新高梁市誕生1周年記念特別展「印象派と西洋絵画の巨匠」が開かれましたので、私が訪れたのはその約2週間後でした。

P5130001_2
当館の案内書には「当館は町内を流れる清流・成羽川をこよなくイメ-ジして設計され、美術館自体も大きな作品で、地下水を利用した人工池『流水の庭』に浮かぶように見える建物、館内にもう一つ『静水の池』があります。そのモダンな創りは成羽町の、文化と伝統・自然との調和がすばらしくマッチしています」と記してあります。

当町出身の洋画家・児島虎次郎(大正年間に倉敷市大原美術館の西洋絵画、彫刻作品の殆どを収集し、日本の美術界に大きな貢献をした人)が郷土の成羽町美術館に多くの作品を残し、町民を始め小中学生に絵画、美術、芸術の素晴らしさを伝えてくれています。県は異なりますが、同じ中国山地で育った私には戦後8年目(1953年)にして町立美術館ができたことはうらやましい限りです。

当館の展示の中心は児島虎次郎の作品です。百点余りの所蔵品のうち、東京美術学校(現東京芸大)の卒業製作で描いた「登校」を始め、ヨ-ロッパ留学中に印象派の影響を受け、帰国後に描いた「酒津の農夫」など約30点が2階に常設展示してあります。1階には虎次郎が集めたエジプト遺跡など約120点を並べたオリエント展示室があります。

私は虎次郎が16歳の頃に郷土の先輩画家が虎次郎の祖母の肖像画を描いたのを見て、みようみまねで描いた《模写:井上コウ肖像》が印象に残りました。当時、16歳頃の少年が木枠に木綿を張ってキャンパスとし、ペンキで描いたものでした。模写した肖像画からは、「本格的な美術教育を受けていなかったにもかかわらず、祖母の深い悲しみ溢れる表情がとらえられていて、少年虎次郎の画才をしのばせる貴重な資料の一つとなっている」という評価はまさにそのとおりであると感じました。

これまで、児島虎次郎の作品は大原美術館(倉敷市)などでも観ましたが、やはり郷土の美術館にある作品には、郷土愛・家族愛がより強く感じられました。

《ふるさと俳句》 【備中神楽】 とろろいものねばりづよく神遊 赤尾冨美子
※備中地方で演じられる備中神楽のうち、荒神(こうじん)の鎮魂を目的とする「荒神神楽」は国指定の重要無形民族文化財。

 
  

| | トラックバック (0)

2006年3月23日 (木)

■【美術館巡り】山陰の小京都に四季折々の“安野光雅の世界”(津和野町立美術館)

仕事の合間に美術館巡りをしていますが、05年度後期(10月~06年3月)は「地域づくりワ-クショップテキスト」など執筆依頼が多くて、なかなか美術館行きの時間が取れませんでした。次の4館(津和野町立安野光雅美術館、高梁市成羽町美術館、尾道市立美術館、広島県立美術館)は駆け足の鑑賞になりましたが、“忙中閑あり”のひと時でした。(文中敬称略)

◆「秋期展」を観て(島根県津和野町)
05年10月、益田市に新設されたグラントワ(島根県立石見美術館)の開館記念展を観に行った際に、家人から緊急提案があったため愛車を約30分走らせて、津和野町立安野光雅美術館(01年3月開館)へ立ち寄りました。これまで、津和野町には「地域づくり交流会」や「道の駅視察」等でたびたび訪れていますが、安野光雅美術館は初めて訪れました。

P5150009_1
当美術館は絵本、風景画、装幀、装画、エッセイなど幅広い分野で活躍されている画家安野光雅の原画作品2700点を収蔵・展示しています。来館者に「自由に空想してもらいたい」という安野光雅の思いが込められております。安野は館内にプラネタリュウムも設置して科学と芸術の融合を図ることも目指したり、数学や文学などにも造詣が深く、独創性に富んだ作品を次々に発表しています。

丁度、安野光雅秋期展(9/9~12/7)を開催しており、第1展示室には「ついきのうのこと」-続・昔のこどもたち-(最新作)ほかの原画が展示公開されていました。安野が自らの子ども時代(昭和初期)を振り返り、思い出を絵日記風に表しています。活動写真を初めて観たときの感動、ふるさと津和野・稲成神社のお祭りで目にした数々の催しが面白かったことなど、「ついきのうのこと」のように思い出される記憶の数々が描かれています。

P5150011_1
安野とは8歳年下の私ですが、同じ中国山地の農村地帯で戦中・戦後の少年時代を育った私にも共通した想い出が蘇ってきました。 秋期展では、その他に「シンデレラ」、「歌の風景」(後期)、「季節の草花」(後期)、、「きつねのざんげ」、「かぞえてみよう」などの作品も展示されていました。今後は四季折々に訪ねたいものです。
女性職員の皆さんの終始感じのよい接客が印象に残りました。

参考文献:別冊太陽「安野光雅の世界」1974→2001(平凡社)

《ふるさと俳句》 【乙女峠】芋の露 聖母出現の地なりけり 西本一都
※明治元年から6年まで、長崎浦上のキリスト教徒が峠の廃寺に幽閉され、改宗を迫られて迫害を受け、36人の殉教者が出た悲劇の殉教地、乙女峠が近くにあり ます。

| | トラックバック (0)