2009年5月22日 (金)

■【美しい景観づくり】広島市安佐北区内の山間集落に住む住民グループが、「シャクヤクまつり」を開催(安佐北区白木町桧山地区)

◆美しい棚田の広がる新緑の山に映える10種類、約3,000本のシャクヤクは今が満開

♣ 棚田とシャクヤク園による美しい景観づくりの檜山地区
001_2 私の住んでいる安佐北区可部町の押手山(おしてやま、706.8m)の北麓に、美しい棚田が広がる白木町桧山(ひやま)地区があります。
   桧山地区の住民は、区役所が推進する「実りの里づくり事業」制度(注)を利用して、休耕田3か所(約2,500㎡)にシャクヤク園を開設しています。 毎年5月下旬の満開時に合わせて「シャクヤクまつり」を開催し、都市住民との交流を図っています。

012 今年のシャクヤク祭りは、5月23日(土)、24日(日)の2日間、9時~17時です。場所は安佐北区白木町桧山地区の幹線道路沿いです。 地域住民による切花や地元の野菜販売があります。 私は都合で22日に家人と訪れました。

018  マイカー利用で初めての方は広島市中心部から国道54号を利用して、安佐北区大林町「大林小学校前交差点」を右折して行くコースが無難かと思います。 
  なお、私は県道広島~三次線(JR芸備線沿い)の白木町から行くコースを通ったことがありません。

注:実りの里づくり事業
  広島市安佐北区役所の魅力づくり事業の一つで農林業振興に関する事業。 実りの里づくりの展開は、①地域住民との共同による景観整備及び維持管理、②地域住民と都市住民との交流促進のためのイベントの開催や農林業体験の受け入れが主である。

《安佐北区役所農林建設部農林課農林振興係》
●電 話:082-819-3932  
●関連HP(日本語検索):安佐北区役所

《シャクヤクの短歌》【シャクヤク】(ボタン科)
 瓶にさす白芍薬に蟻つけり季節の花のこの鮮(あた)らしき  木下 利玄
〔NHK花言葉〕はじらい・はにかみ

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2009年3月30日 (月)

■【プロ野球広島カープ情報】カープの新本拠地球場/祝 新広島市民球場3月28日完成 !! (JR広島駅から徒歩約10分)

♥ 建設費の一部を「たる募金」で賄うなど、市民の熱意によって新広島市民球場が誕生 
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   広島市民やプロ野球フアンが待ち望んでいた、新広島市民球場「MAZDA ZOOM-ZOOM スタジアム広島」(略称:マツダズームスタジアム)がようやく完成の日を迎えました。

 建設費は90億円。うち広島市が23億円、広島県と経済界がそれぞれ11億5,000万円を負担し、特筆すべきは県内外の人々が「たる募金」などで寄せた1億2,600万円も含まれています。

 この新広島市民球場(以下、新球場という)建設構想は今から15年前の1994年に、広島商工会議所が広島駅東地区への建設を発表したことに端を発し、その後幾度の変転を経て実現しました。

 当初、この新球場の役割は老朽化した旧球場に代わる役割を担っただけの器でしたが、2004年に起こったプロ野球界再編成問題(近鉄とオリックスとの球団合併とそれに伴う1リーグ制移行の動き)は、最悪の場合、資金力の乏しいカープ球団にまで及ぶのではないかとの動揺が市民やフアンの中に広がりました。

 このため、新球場は「球団経営の基盤を強化するために不可欠な器」と役割が変質しました。 その後、建設地が旧広島市民球場(以下、旧球場という)の跡地(中区)でなく現在地に決まったことで、新球場の役割はさらに重要性を増し、広島の将来を担う「夢の器」になった(中国新聞20.3.29朝刊)と評されています。
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   なお、民間シンクタンクは年間150万人の集客を見込んでいます。 ぜひ、新球場へたびたびお出かけください。

♥新球場の概要    
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 〔建物、面積、収容人員〕
 ・地上7階地下1階建て 
 ・平面建築面積は約23,00㎡(旧球場の約3.6倍の広さ)
 ・最大観客数は33,000人(旧球場約32,000人)
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 094_006 〔グラウンド〕
 ・グラウンドは内外野とも天然芝(旧球場は内野が土) ※プロ野球本拠地としては唯一
 ・右翼100m、左翼101m、中堅122m(旧球場は両翼91.4m、中堅115.8m)
※JR広島駅を通過する新幹線や在来線の車窓からも球場の雰囲気が感じと取れる構造(上の写真は球場側から下り新幹線を見た場面)。                           
094_011_2 〔座席〕 
 ・ゆったりとした座席は大リーグ並みの横幅50cm(旧球場内野席45cm)、奥行き85cm(旧球場内野席75cm)を確保 ※スタンドの傾斜が緩やか、一列当りの座席数が少ないため、席の出入りが楽、移動しやすいのが特徴。
094_020_2 〔売店〕
 ・27の常設売店、21のワゴンの計48店、約80種類のメニュー。和洋食、イタリアン、ファストフードからスイーツまで。お好み焼き、かき飯、 広島風つけ麺など。旧球場で販売されていたカープうどんも販売。
 094_014 〔コンコース〕
 ・試合を見ながら、球場を一周できる。一周は約600m。

094_025 〔カープ公式戦のチケット売場〕
 ・29区分(旧球場は11区分)に細分化。本塁後方の「砂かぶり席」8,000円(セリーグ最高)、一般席は800 円~3,500円(旧球場より100~500円UP)

《(株)広島東洋カープ公式ホームページ》http://www.carp.co.jp

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《新広島市民球場情報の出所》広島市「広報ひろしま 市民と市政 」(21.3.15) 


《季節の花の俳句》【カタクリ】(ユリ科)古名は「堅香子」(かたかご)
 かたかごへ大杉の影倒れ来る  河野 照子
※4月上旬に、緑色に黒っぽい紫色の斑紋がある双生の葉の間から花茎を伸ばし、ユリに似た形の紅紫色の花を俯きかげんに咲かせます。 《花言葉》初恋

 広島市周辺のカタクリの群生地としては、かつて私が第2のふるさと(現安芸高田市)に住んでいた当時、隣町まで3年間自転車通学した高校(3年生の時に、小高い山の整地跡へ移転した)近くの、安芸高田市向原町長田(JR芸備線向原駅から約1.5km広島寄りの山斜面)にカタクリの群生地があります。

 13年前から、住民が用地提供や草刈り奉仕などで守ってきた群生地で、今年も4月4日から12日までカタクリまつり(軽食、特産販売など)が開催されます。 花の咲く時間は午前11時から午後2時半ごろの時間帯とのことです。  今年の開花は約1週間早く、12日まで見ごろが続くようです。 私も数年置きに車で観賞に行きます。

《追 補》
 4月5日(日)に新球場のレフト側外野コンコースの一部が一般開放され、併せて正面入口横のカープ球団グッズ売場が営業しましたので、大勢のフアンや見学者が訪れました。 一市民の私もやっと球場内の写真が撮れました。


 
                 

   
 
      

 

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2009年1月 9日 (金)

■【プロ野球広島カープ情報】“炎のストッパー”故・津田投手の顕彰板を見に、4月の新球場完成で閉鎖される広島カープの現本拠地球場「広島市民球場」へ(広島市中区))

◆終戦直前の原子爆弾投下により焦土と化した広島市で、戦後復興の希望として誕生した広島カープとともに、半世紀余りを歩んだ広島市民球場を、昨年末33年ぶりに訪問

▼はじめに 
   現在のプロ野球広島東洋カープ(以下、広島カープと略する)は1949年12月に結成され、セントラルリーグに加盟(設立当初は7球団)しました。  なお、結成当初の広島カープ本拠地球場は、市の中心部から離れた広島総合球場(現在、西区観音新町にある広島県営球場)でした。 
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ところが、1955年頃からプロ野球はナイター試合が主流となり、広島総合球場ではナイター設備がないため、「ナイター設備を備えた新球場を市内中心部に」という市民・県民の声を反映させる形で、交通至便な市内中心部の基町へ地元財界10社の寄付金により、1957年に現在の広島市民球場を建設し、新たな本拠地球場にしました。

   このたび、現在の広島市民球場が老朽化したため、本年4月に新広島市民球場がJR広島駅南口から徒歩約10分の場所に完成し、広島カープの新たな本拠地球場になる予定です。

▼広島市民球場と広島カープの戦績の関係を戦績表から見る
    プロ野球ファンなら良くご存知のように、広島カープは結成から現在までにリーグ優勝6回(1975年,1979年,1980年,1984年,1984年,1986年,1991年)、日本一3回(1979年,1980年,1984年)の栄誉に輝いています。

   その間、A・Bクラス入りはどうだったのかとホームページでプロ野球記録を調べてみますと、Aクラス20回、Bクラス38回とBクラス在位期間が長いことが分かりました。

   特に、1950年から1967年までの18年間(結成当初の広島総合球場から広島市民球場へ移転後の10年間)の連続Bクラス最長記録は、戦後2リーグ制になってからプロ野球史上2位のワースト記録となっています。

   やっと、1975年に広島市民球場でリーグ初優勝し、日本一も1979年に広島市民球場で初めて達成できた訳です。 私は'75年に日本シリーズの試合が広島市民球場で行われた際に、指導先企業の招待で観戦しました。  結局、リーグ優勝6回、日本一3回は広島市民球場で達成しました。

   この33年間、私の勤務先(独立開業後は事務所)が市内中心部にあったり、関与先企業が市民球場近くにあったりしましたが、結局は仕事に追われるなどで余り足を運びませんでした。

▼閉鎖まで100日を切った広島市民球場を昨年暮れに見学し、ファンだけでなく市民・県民にも思い出多い感傷に浸る  
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昨年暮れの平日に、所用で市内中心部に出かけた際に広島市民球場前を通りかかり、以前から有料イベントのない日は球場が無料で一般公開されているのを知っていたので、無人受付で簡単な名簿記帳を済ませて入りました。

021 ● グラウンドでは球場閉鎖を惜しんで、市民の野球チームが試合の最中 
  33年ぶりに内野スタンドに上がってみますと、ちょうど職場のグループらしい野球チームが、今まさに試合前の挨拶を交わす場面に遭遇しました。 
   しばらくの間、内野手がゴロをトンネルしたり、外野手の上を越えた長打連続の草野球(失礼)を眺めていました。  プレーしているメンバーは、使用が残り少なくなった球場で最後のプレーを楽しんでいるようでした。

     ● 津田投手の顕彰板(銅製)は1塁側ブルペン(投球練習場)内に掲示中  
   今回入場の主目的は、これまで一般に開放されることが少なかった、「カープファンならぜひ見たい」カープの“炎のストッパー”故・津田恒美投手の顕彰板「津田プレート」(通称)をこの目で見ることでした。
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    なぜこれまで津田プレートがフアンの目に余り触れなかったのかは、次の理由からでした。
   それは、現球場では津田プレートが1塁側ブルペン脇の柱に掲げてあり、試合日にはカープ投手が投球練習をしているため、観客は立ち入ることができない場所だったからです。

   そのため、これまで現球場では試合のない日やシーズンオフに、ファンは予約制で津田プレートに対面する方法しかなかったのです。  ただし、昨年の9月末から現球場が一般に開放されている日には、津田プレートも公開されています。

   私も昨年末の見学日にやっと待望の津田プレートに対面しました。  1塁側内野スタンドの通路横に「津田プレート」の場所について方向板の掲示があり、その表示に従って内野席からブルペンに通じる扉が開けてありました。 電灯が点いてなく暗いブルペンに降り立つと、顕彰板を掲げた柱が見えました。
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午後の太陽の光が少し差し込んでいるその柱に近寄ると、顕彰板に記載している文字が少し見えました。 しかし、肉眼では判読しにくい状態でした。  他の入場者達も「銅版が汚れていて字が読めない」など、お互いに話し合っていました。  私は「文面の解読は別の方法でできる」と思い、写真を数枚写して帰りました。

   帰宅して、「津田恒美顕彰板」で検索すると多くの方のブログや新聞記事があり、顕彰板記載の全文が判明しました。 その文面は次のとおりです。

        直球勝負 
     津田恒美(享年32) 
      1982~1991 
 笑顔と闘志を忘れないために。
 初出場  1982.4.10 (対大洋2回戦/広島市民球場)
 初勝利 1982.4.29 (対大洋6回戦/横浜スタジアム)
 生涯成績 49勝41敗 90セーブ

   なお、銅版の汚れについては、これまで球団職員に案内されて津田プレートを見た人のブログや新聞記事によると、「多くの(カープ)投手が登板する前にこのプレートに手を添えたようで、汗などで変色しているところがある」が、球団職員も「汚れているようでも銘版を拭いたりはできない」という言葉が添えてありました。

   最近の新聞記事では、「(津田プレートについて)新球場では、同じブルペン脇に移設されるが、試合日に立ち入れない。 
   現球場では試合のない日やシーズンオフに津田プレートを訪れるファンが後を絶たないことから、レプリカ(複製)での公開を決めた」(中国新聞2009.1.7朝刊)と報じています。
   4月以降の新球場では、球場への入場者はレプリカをたやすく見ることができそうです。
   
▼ おわりに 
   前出のように、結成当初から連続18年間もBクラスに低迷し、当初は選手の遠征費、報酬の支払いにも支障をきたしていたカープ球団に対して、球場入り口に大きな酒樽を置いて入場者がカンパする“樽募金”で支えてきました。  当時は“草野球少年”の私も、試合観戦の際は入場料と共に樽募金投入は欠かしませんでした。

   従って、広島カープ球団の創設期の苦労を知りそれを支えてきた広島市民・県民にとっては、途中で球団の経営陣が代わって広島東洋カープに社名変更したり、その後Aクラス維持や優勝、日本一になっても、“われらがカープ”の気概を抱き続けるファン・市民・県民が広島にまだまだ大勢健在です。

《球場見学問い合わせ》
 広島市市民球場管理事務所 電話 082-228-5291(代)

《追補》市民球場での「津田プレート見学」は1月15日で終了
   今朝の新聞に「津田プレートの一般見学は、南区で建設が進む新広島市民球場に移設するため、本日で最後になる」旨の記事が載っていました。(中国新聞'09.1.15朝刊)

《ふるさとの地名俳句》 【原爆ドーム】※現市民球場と原爆ドームとは道路(電車通り)を隔てて建っています。
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 被爆ドームに冬来る瓦礫そのままに  藤岡 築邨 

(球場3塁側内野席上段通路から原爆ドームを臨む)
 

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2008年12月30日 (火)

【'08年末 故人悼記】広島県内初の民営ユースホステル「自然の森 MGユース・ホステル」を開設し、全国有数の人気ホステルに育てた“森岡ママ”が永眠。享年98(広島県府中市上下町)

長年にわたり青少年に交流の場を提供すると共に、原爆の恐ろしさや平和の尊さを伝える語り部を務めた人傑・森岡まさ子さんを偲ぶ 
 毎年、年末の新聞にこの1年間の著名人の墓碑銘(悼記)が載ります。  今年、森岡まさ子さん(注1)の訃報(5月13日死去)に接したときはショックを受けました。  訃報を聞いた友人、知人から、私の許へも驚きと惜しむ声が寄せられました。 

  90歳を過ぎてかかった大病から回復し、晩年は夫の遺志を継いで平和の大切さを伝えようと、講演に国内や世界中を飛び回っておられた森岡さんに、もっとご活躍していただきたかったと思われる人々は大勢居られると存じます。 本年末に際し、改めて森岡さんを追想してみたいと思います。 

  森岡さんには、1983年の春に初めてお会いしました。  前年に結成された「過疎を逆手にとる会」(注2)の第1回「逆手塾」(1泊2日)が、上下町隣町の総領町で開催された際にお目にかかりました。 

  翌年から、私は逆手塾のスタッフの一員となり、年1回の逆手塾開催の際には森岡さんにたびたびお越しいただいたり、森岡さんのMGユースで逆手塾の打ち上げをスタッフが行うなど、親しくしていただきました。
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森岡さんにお目にかかると、心からの満面の笑みとお歳を感じさせない力強い話し方で、誰もが魅了されました。  全国からMGユースを訪れた若者が「森岡ママ」のフアンとなって「MGっ子」を名乗り、その後も足を運んだ事績は末長く語り継がれることでしょう。

  残念ながら最近はお目にかかる機会がなく、私が最後にお会いしたのは1999年から始まった可部線存続運動(注3)の際、2001年1月に私の住んでいる可部町で開催された決起講演会で、森岡さんを講師にお迎えしたときでした。

020  当日、地元主催団体のメンバーとして会場スタッフをしていた私は、講演の前後に森岡さんへお目にかかって、親しくお話させていただきました。  お名刺は初対面時にいただいてから、その時が2度目で最後になりました。

  一方、肉声ではありませんが、今夏に「NHKラジオ深夜便・心の時代」(午前4時台のラジオ放送)で、森岡さんの「出会いは人生の宝~97歳を生きる」(2夜連続)の1年前の再放送(リクエスト)を聴きました。

  もうお声は聴けないと思っていた矢先、早朝に目が覚めてラジオのスイッチを入れたら、森岡さんの力強い声が流れてきて、これまで詳しくは知らなかった波乱万丈の人生を聴き、新たな感動を覚えました。 

  余談ながら、午前4時台のラジオ深夜便は新聞には、ゲスト名、タイトル等が載ってなく、偶然の聴取でしたので、何か因縁めいた感じがしました。  謹んで、森岡まさ子さんのご冥福をお祈りします。

《注1》森岡まさ子さんの略歴 
  森岡まさ子(1910-2008)上下町生まれ。旧制上下高等女学校卒業。 戦前、新聞記者・森岡敏之氏と結婚。その後、旧制京都大学マライーニ氏の秘書を勤め大きな影響を受ける。 

  戦後、終戦前の広島市内で原子爆弾の投下により被爆し、原爆症となった夫と共に上下町に帰郷する。 

  1959年、夫の希望で広島県内初の民営「自然の森 MG(モダンガイド)ユースホステル」(当初4畳半の一間のみ)を開設する。
  このMGユースを舞台に若者との交流を続け、30万人の宿泊客の面倒を見て、「森岡ママ」と慕われた。

  1967年、夫の死後も講演で全国を回り、原爆の恐ろしさや平和の尊さを訴え続けた。 旧上下町名誉町民。 92歳で「エイジレス章」(内閣府)授章。 2008年5月13日永眠。

○近著:『森岡ママは今日も笑顔で丘の上』講談社(2007) 定価(税込)1,680円 <本文の写真は表紙>
○商品名「CDセレクション ラジオ深夜便“出会いは人生の宝~97歳を生きる”森岡まさ子 B99BF」
  販売価格 1,050円、, 内容 CD1枚 78分、 発売 NHKサービスセンター   

《注2》過疎を逆手にとる会
  1982年4月、広島県の山間部の過疎地域で発足した。 中国地方の若者たちが、過疎地域間のネットワーク形成を目的とした会。

  過疎を逆手にとる会(通称:過疎逆)は、発足のときに「過疎を逆手にとる法10か条」(申し合わせ事項)を掲げ、これを理念とし、哲学ともした。

  〔10か条〕1、「過疎」は「魅力ある可能性」と信じること。 2、「ない」ということは「なんでもやれる」という可能性があること。 3、目標は「東京にはできないこと」をやること。(以下、略)

  年1回の「逆手塾」(1泊2日)は、最盛期には200名を超える参加者があり、全国の地域づくり活動に影響を与えた。  やがて、過疎を逆手にとる会は2001年に「逆手塾」に改称し、目的、内容、組織等も新しく生まれ変わっている。 ※現在の逆手塾については、<宮崎文隆のホームページ-逆手塾>をご覧ください。

《注3》可部線存続運動 
 1998年、JR西日本が可部線の非電化区間(可部ー三段峡間4602km)廃止計画を発表した。 
 沿線の広島市、湯来町(現広島市)、加計町・筒賀村・戸河内町(現安芸太田町)の自治体、地域住民、各種団体等は1999年から可部線存続運動を展開した。

 活発な存続運動の努力も空しく、2003年11月30日をもって非電化区間(可部~三段峡)は廃止された。

《バラの俳句》【バラ】(バラ科) <NHK花言葉>
 雨近し色極限の薔薇なりし  早間 幸枝

  ※私は森岡まさ子さんがお好きだった花を寡聞にして存じません。  しかし、私は大勢の方々が森岡さんを慕って取り囲んだ場面を何度か目にしたり、また森岡さんを中心にした集合写真を拝見して、「まるで森岡さんは“大輪の薔薇”のようだ」と感じたことがあります。  そこで、バラの花言葉「愛」とバラの俳句を森岡さんに献じます。
 

  

  
  

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2008年12月24日 (水)

■【地域イベント】残念!! 山一つを丸ごとクリスマスツリーにする「翁山世界一の夢のツリー」が20年目で惜しまれながら終幕(広島県府中市上下町)

上下町活性化の起爆剤になった「翁山世界一の夢のツリー」はいよいよ新春4日で終了

   クリスマス前後は、繁華街や大型店でイルミネーションやツリーを飾って、ジングルベルの音楽が流れる場面が至るところで見受けられます。 最近は家の屋内や屋外にイルミネーションやツリーを飾って楽しむ家庭も、各地に散見されるようになりました。
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   広島県府中市上下町(じょうげちょう)では、“平成合併”前の旧上下町時代の1989年から町中心部にそびえて、町民に親しまれている翁山(おきなやま・標高538m)を、住民有志が「翁山世界一の夢のツリー」実行委員会(事務局:上下町商工会)を結成して、12月上旬から翌年1月上旬までの期間に4000個の電球点灯で山ごとツリーに飾り立てました。
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   その後、年々内容改善を重ねて今では広島県内の師走の風物詩として親しまれる名物イベントに育て上げました。(写真は「翁山世界一の夢のツリー」19991年12月の点灯光景。写真提供:実行委員会)

  報道では今年も去る7日にふもとの小学校グラウンドで点灯セレモニーがあり、住民ら約300人がカウントダウンに参加したそうです。 

午後6時に山腹から中腹にかけて設置した約4000個の赤、青、黄の電飾が一斉に灯もり、新春4日まで毎夜6時ー11時点灯。 ただし、12月24,25、31日は夜通し点灯されます。

   今年のイルミネーションは例年の町の観光PRマークに加えて、「20回ありがとう」の文字が輝いていると
報道されていました。 

   長年の風雨で電飾設備が老朽化したり、翁山山頂一帯の樹木が成長して年間常設の電飾が見えにくくなったが、その再整備の予算確保も難しいために、主催者の「翁山世界一のツリー」実行委員会が今冬限りで廃止を決定したのです。

   「翁山世界一の夢のツリー」廃止は町民やフアンにとって大変残念なことですが、1980年代に上下町商工会へ何度か地域活性化の講演に訪れた私も残念に思います。 

   その後、私は1989年「翁山世界一の夢のツリー」が初めて点灯されたその日の午後に、上下町の近くの町で周辺地域の町村長と同じ地域の商工会役員による「地域問題懇談会」(町村長と商工会役員が当地域の活性化について意見交換する会)の講師に招かれていました。  

   懇談会の終了時に、旧知の上下町K町長から出席者に対して「皆さん、上下町では今夜から正月明けまで翁山を丸ごとクリスマスツリーにするイベントを開催します。ぜひ観においでください」と案内がありました。 
 
私は初日の当夜は先約があって行けなく、その後も12月、1月は報告書執筆等で忙しくて、とうとうその時期に訪れる機会を逸しました。

   しかし、その後のある年の夏に上下町で開催されたまちづくりの会合(1泊2日)に参加した際、夜は上下町内に宿泊したことがあります。

   その夜、町内放送で「今夜の翁山ツリーの点灯は、○○さんから○○さんへ○○のお祝いです」といった内容のアナウンスがあり、ツリーの臨時点灯(電飾設備は周年常設のため、事前に申し込みめば有料点灯)が行われたのに遭遇したことがあります。

   早速、外に出て翁山を見上げましたら見事に点灯していました。依頼者や対象者とゆかりがなくとも、ほほえましい光景でした。

   主催者の 「翁山世界一の夢のツリー」実行委員会の合言葉は、「山が輝き、町が輝き、人が輝く」ですが、この合言葉のとおりまちづくりに新しい動きが出始めました。

   たとえば、「白壁(旧天領の町)の似合うロマンの町づくり」(町並みづくり研究会の結成と活動など)、「まちづくり景観条例の制定」(歴史と文化が薫り美しい自然環境を守り、継承する団体の認定)、「ポケットパークの整備」(古くなった住宅跡地等の利用による小規模な駐車場、休憩所、トイレ等の整備)等が実現し、その後もまちづくり活動は続いています。

   なお、 「翁山世界一の夢のツリー」実行委員会では、20年間の集大成として記念写真の提供を市民に呼びかけ、12月7日から来年1月末まで、府中市上下歴史文化資料館(電話0847-62-3999)へ展示しているそうです。

《ふるさとの地名俳句》 【矢野温泉】※全国屈指のラジュウム温泉
 矢野温泉冬日の中へみな猫背  赤木 芳政   

  

  
  
   

   

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2008年8月22日 (金)

■今年('08年)も広島の8月は、6日「原爆の日」と15日「終戦の日」の慰霊行事で過ぎ去りました

◆私には余りにも悲惨な人類最初の原爆投下犠牲者と太平洋戦争等の犠牲者を、静かに弔う63年目の夏でした
  社会人になってから、私にとっての毎年8月前半の2週間は「核兵器廃絶・平和希求と被爆犠牲者・戦争犠牲者への鎮魂の祈り」の期間となりました。

  それは次の二つの式典に代表される衝撃的な出来事が今もって脳裏から離れないからです。  今年この二つの出来事はそれぞれ63回目を迎えました。

 ▼6日、広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式(平和記念式典)開催(於:広島市平和記念公園)  
  米国による大勢の非戦闘員(民間人)への原爆投下から63年目を迎えた被爆63年式典は、今年はあの日の炎暑とは違って早朝から日差しを薄雲がさえぎる天候の中で開催されました。 

  今年の式典参列者は45,000人で、昨年より5,000人多かったそうです(市発表)。
  午前8時から始まった、この1年に亡くなったか死亡が確認された5,307人の名前を記した原爆死没者名簿が原爆慰霊碑に納められました。  これで原爆死没者の累計は258,310人になりました。

  あの日と同じ8時15分に2名の遺族代表が「平和の鐘」をつくと、参列者は起立して1分間の黙等をささげました。  今年も私はテレビから流れる司会者の「黙とう」の合図で、約20km離れた原爆慰霊碑の方向に向けて黙とうしました。

  私の広島における原爆体験は、既報ブログ(’08.1.18)の≪岡本太郎《明日の神話》広島誘致情報①≫に記載していますように、爆心地から約50km離れた山(標高約800km)の中腹から目撃の立場です。 

  しかし、核兵器のない平和な世界を希求する気持ちは、63年前から持ち続けています。  今年の平和宣言で秋葉広島市長が「核兵器廃絶に必要なのは、子どもたちの未来を守るという強い意志と行動力だ」と訴えました。  最近、私は日本国内において原爆の記憶や核兵器への憤りが薄れていることに危機感を持っています。
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被爆者の平均年齢が75歳を超えて被爆体験の語り部が少なくなった今、次世代の若者による被爆の実相と核兵器の廃絶を語り伝えて平和な世界の実現を目指す行動と爆心地近くにそびえ立つ原爆ドームに代表される被爆建物等の永久保存は、ぜひ継続して欲しいのが私たち被爆世代の願いです。
  (原爆ドーム 8月8日撮影)

 ▼15日、終戦記念日戦没者追悼式開催(於:日本武道館)  
  終戦記念日の15日、政府主催の全国戦没者追悼式が東京で開かれました。  追悼の対象は、戦死した軍人、軍属役約230万人と空襲や原爆で亡くなった約80万人です。  

  式辞で福田首相は「悲惨な戦争の教訓を風化させることなく、過ぎし日の史実を未来に正しく引き継いでいくことこそ、多くの戦没者の思いに応える道」と平和への誓いを新たにしました。

  63年前、当時の国民学校学童(現小学校児童)であった私たちには、ラジオから流れる天皇陛下の言葉は表現が難しく、そのうえ雑音交じりのために何のことか理解できませんでした。 
 
  しかし、予告された夏休み中の15日正午からのラジオ放送を聞くために大人や子どもが集っていたので、周りの大人が放送の途中から「日本は負けた」と涙声で話すのを聞いて、ようやく日本の敗戦を知りました。

  戦争中は新聞社等への言論統制が厳しく、軍の報道機関の「大本営発表」が唯一の報道とあって国民はその発表を鵜呑みにするしか方法はありませんでした。

  これまで日本軍が勝ち進んでいると信じ(信じこまされ)ていたが実は負け続けていたことが、63年前の敗戦という形で現れたのでした。

  国民はその日を境に、価値観、政治、経済、社会、生活、行動などすべてが激変しました。  かつての満州、朝鮮半島、南方の占領地域等から同胞の引き揚げがありました。

  また、ソビエト占領地域から日本人男性を無法にもシベリヤ抑留・強制労働の苦難や占領軍の日本進駐など挙げれば限りがありません。

  国内においても、外地から無一物で帰国した引揚者や職業軍人・軍需工場の労働者など敗戦で職を失った人、あるいは戦争で父、夫、息子を失って男手がなくなった家などは、大人でも生活が楽ではありませんでした。

  一方、広島では戦争が激しくなって広島市から農山村の学校へ集団で学童疎開していた子どもたちが、原爆投下により一瞬にして身寄りをなくし“原爆孤児”になったものが多く出て、社会問題となりました。

  私たちの年代はこれらの重大な出来事を大なり小なり身を持って体験し、その後の人生に大きく影響しました。  残念ながら、今も地球のどこかで戦争(内戦)が起きていますが、世界平和を願って発言し、行動しましょう。

《追補》  
  広島地方は昔から熱心な浄土真宗安芸門徒の多い地です。  8月中旬は広島地方で月遅れのお盆(盂蘭盆会)が行われます。  

  お盆の8月13日から16日ごろまで親類縁者が集まって、阿弥陀仏のみ教えに出遇った喜びをかみしめ、それに遇わせてくださった先祖のご恩を思う静かな仏事が行われます。

  当地方で共同墓地へお墓参りすると、通り道にあるお墓の墓名碑の戦没者名等に交じって、「昭和20年8月6日亡」(被爆死)と記された、幼児から中高年者までの単独名あるいは連名を見かけます。  その場にいたたまれない気持ちになります。 

 《ふるさとの地名俳句》【原爆ドーム】 
夏の蝶被爆ドームの中へ消ゆ  平松 睦子 

《季節の短歌》【八月十五日】
 わが心くもらひ暗し海は山は昨日のままの海山なるを   佐々木 信綱   

  

  

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2008年6月27日 (金)

■【景勝地】西中国山地かわなみ街道「第4回かえるまつり」と「モリアオガエル生息の名勝庭園・吉水園一般公開」を観に(安芸太田町加計)

◆「カエル」を通じておとなから子どもまで、自然環境を守る大切さ、自然の豊かさを感じるイベントを創設(広島県安芸太田町)  
 6月上旬の土曜日に太田川の上流にある安芸太田町加計地区(平成合併前の旧加計町)へ地域イベント「かえるまつり」を観に家人とマイカーで行きました。 

   かつては私が住んでいる可部駅から加計駅を経由して、国の特別名勝「三段峡」のある三段峡駅までの63.2kmは、JR可部線(非電化区間)が運行されていました。  

  しかし、2003年11月に可部~三段峡間が「不採算路線」の理由から廃止され、以降は可部から安芸太田町(旧2町1村)へはバスあるいはマイカーが交通手段となりました。   
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その当地区は2004年10月1日に安芸太田町に合併した翌'05年から、これまでも6月、11月に一般公開していた県名勝・「吉水園」(注①)の公開に合わせて、6月は地域イベント「かえるまつり」を新しく開催しました。

  今年はかえるまつりの4年目に当ります。   旧JR可部線加計駅跡の広場へ2005年に建設された「太田川交流館かけはし」をメイン会場に、春の吉水園一般公開や旧駅前商店街を中心とした街ぐるみ博物館(注②)など多彩な行事が開催されました。
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第4回かえるまつり&吉水園のチラシには、「清流太田川の流れる安芸太田町では『カエル』を通じて大人から子どもまで、自然環境を守る大切さ、自然を豊かさを感じていただけるイベントを開催します。  イベントに参加して『若ガエル、地域がよみガエル』ことが出来れば最高です」と記載してありました。
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   メイン会場隣りの特設駐車場へ車を停めてメイン会場へ行きますと、ちょうどステージ上ではイベントが始まっていました。  会場内にはマスコットキャラクター「モリッピー」も出迎えていました。  
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  私たちの主な目的は、年間2回で4日間しか公開されない由緒ある「吉水園」の庭園と園内の池の上に張り出した木の枝に産み付けられたモリアオガエル(県天然記念物)の卵塊を鑑賞することでした。
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先日の新聞では産卵が終わったばかりの卵塊が見事に」木の枝にぶら下がった写真でしたが、残念ながら当日は泡とともに池に流れ落ちているのが多く、木の枝に残っていた卵塊は形が崩れていました。

  庭園鑑賞が終わってから、商店街の各地に散在している「まちぐるみ博物館」を散策しました。   以前、鉄道があった頃は人気のまちぐるみ博物館でした。 

029_2 しかし、鉄道廃止後は遠来客が少くて近隣客の割合が多くなったのか、店頭、店内への立ち寄り客が減ったように見受けました。


037_2   それでも、現地に約2時間近く滞在して、車庫に格納してあるディーゼル車に対面した後で昼食を摂り、復路は随所でレールを撤去した廃線跡や太田川に架かったままで錆び付いている鉄橋を眺めて、鉄道を運行していた往時を偲びながら帰宅しました。   

 注①《吉水園とモリアオガエル》    014
江戸時代中期、江戸期を通じて中国地方でも最大手のたたら鉄山師であった「加計隅屋」16代当主が、近辺の山と池をそのまま活かして山荘(吉水亭)として造った廻遊式庭園で、県名勝に指定されている。

  当園のモリアオガエルは、水辺の樹上に産卵するという奇妙な習性をもつ青蛙の一種。  5月上旬から6月下旬にかけてが産卵期で雌雄共同で直径10~15cmの真白い液状の塊をつくり、その中に約300個の卵を産みつける。

  約1週間でふ化したオタマジャクシは、泡とともに次々に池に流れ落ちる。  幼蛙は2か月後は近くの森に入って行くが、その数はイモリなどの天敵の捕食を免れたごく少数のようである。(資料:『吉水園』パンフレットより)

注②《街ぐるみ博物館》  026
1995年スタートした空き店舗や民家を活用した「街ぐるみ博物館」。  当時はレトロな展示が観光客の人気を呼び、都会の児童・生徒の総合的学習の場にもなった。  今回はキルトサロン展、神社の傑作絵馬公開、吉水園公開、神楽館、流木展、鍛冶屋館など10か所が出展。 

《ふるさとの文学》 【鈴木三重吉と吉水園】   005
  1906年、(広島市出身の)作家鈴木三重吉は同じ漱石門下であった親友の加計正文(隅屋22代)を訪れて、初秋の日々をほぼ1週間吉水亭に滞在し、ここで得た題材を構想して名作「山彦」を書いた。
 
  その書き出しには「城下見にゆこ13里、炭積んで行こ13里、と小唄に謡うという13里を、城下の泊りからとぼとぼと、3里は雨に濡れてきた。」とある。(資料:『吉水園』パンフレットより)
※園の入り口に鈴木三重吉「山彦」文学碑があります。 

太田川と舟運の開通》
  太田川は冠山(広島県廿日市市)に水源を発し、安芸太田町(加計など)、広島市(可部など)を経由して河口の瀬戸内海に注ぐ、延長103kmの川。 

  寛文年間(1661年~1673年)頃に、上流は加計から可部を経由して下流の広島城下町までの約50kmの区間、米を始め木炭、木材などの生活物資が太田川の舟運を利用して運ばれた。  
  可部は太田川流域における最大の川船湊になった。

   
 


    

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2008年2月 1日 (金)

■【可部情報】JR可部駅西口広場に可部の地域資源“水・鋳物・町家”を活かした広場空間が出現(広島市安佐北区)

◆'03年11月JR可部線可部駅~三段峡駅間廃止で活気を失った可部駅及び駅周辺の活性化を目指す

▼可部駅西口広場はJR鉄道&バス乗り継ぎの利便性と可部駅以遠のバスターミナルの役割    
   旧蝋の2日、4年余の歳月と広島市と国による整備費12億円をかけたJR可部駅西口広場(西口広場と略する)が完成し、行政による完成式がありました。 
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   広さ3600㎡の西口広場は、従来JR可部駅から300、220mと遠かった上下線のバス停を集約し、JR電車との乗り継ぎを改善したバスターミナルや可部の歴史を示すモニュメントを備えた、新しい可部の顔となる交通拠点となりました。  

   '03年11月に「JR可部線可部駅~三段峡駅間廃止」(注)で揺れたJR可部線は、JR西日本が可部駅以遠の非電化区間46.2kmを廃止後、マイカー利用できない廃止区間の沿線住民は専らバス便に頼っています。
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今回の西口広場の整備は、これらバス利用者に鉄道とバス乗り継ぎの利便性及びバスターミナルとしての機能性を提供したものといえます。

   西口広場の整備コンセプトは「歴史と未来が織り成す可部駅西口広場」で、 サブテーマは「地域資源(水・鋳物・町家)を活かした広場空間の演出」です。

   「歴史」を感じる可部旧街道の街並みにある町家の切妻屋根、窓格子等の和風のデザイン、「未来」に向けて広場の外観はお洒落な新しい感性を呼び起こす洋風のスタイルが表現されています。
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なお、市民交流のツールとしてガラスのショーケス「地域情報板」を設置しています。 

   近年、JR可部駅には「屋外トイレ」がありませんでしたが、近く屋外トイレが西口広場に完成します。

▼地元住民による可部の「歴史」と「未来」を象徴するモニュメントの建設 
  可部の街並み保存運動に取り組んでいる「可部夢街道まちづくりの会」(可部カラスの会と事業活動提携の間柄)は、今回の市・国による西口広場整備事業に地元市民団体の中核として加わリました。 
  
  その一方で、かつて可部の主要産品であった「酒・醤油」「鋳物」「山繭織り」を共通のキーワードに、地域住民の意見を採り入れてモニュメントを建設し、当日の行政の完成式後に続いてモニュメント完成式を行ないました。

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P1300005   モニュメントは前出の共通キーワードを表現する①酒・醤油醸造→名水→「揚水ポンプ・貯水池」、②鋳物→羽釜・風呂釜」、③山繭→「(繭を作るヤママユ蛾の餌となる)カシの木」をデザインに採り入れています。
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 建設資金は企業、団体、個人から賛同を得て合計970件でした。   私の所属するまちづくり市民グループ「可部カラスの会」はモニュメント建設費用の寄付や完成式のイベントスタッフとして協力しました。
 
▼可部駅における鉄道、バス及び可部市街地の国道54号、可部バイパスの利用状況 
  最近の可部駅の利用状況は、平日電車利用6000人、バス利用1500人(広島国道事務所調べ)です。

   一方、可部市街地を縦断する国道54号は昨年3月に部分開通した可部バイパス(計画延長9.7kmのうち6km開通)は、市北部と中心部を結ぶ所要時間がわずかながら短縮しました。 
   しかし、残りの工事区間が開通するまでは可部町内の交通渋滞は解消できそうにありません。

  現在、可部バイパスと並行する国道54号の半日(午前7時~午後7時)交通量は2万ー3万台(広島国道事務所調べ)です。

▼可部線の廃線敷の活用と可部線の電化延伸の動き  
  鉄道フアンの関心事である「可部線の廃線敷のその後」は、既に可部駅~旧河戸駅間の電化延伸検討区間を除く残りの区間のレール、枕木などの撤去が始まっています。
 
  これは廃線敷再生ビジョン「可部線メモリアル街道」に基づき、廃線敷をサイクリングロードや自然散策道の準備作業です。  広島市は'09年度から10年がかりで5億円を投入する予定と伝えられています。

  可部駅~旧河戸駅間(1.3km)の電化延伸について、広島市は財政難の折から今のところ具現化する目途は立っていません。

  河戸駅以遠の旧沿線の安芸太田町(旧加計町、旧筒賀村、旧戸河内町)はメモリアル街道づくりを念頭に、一昨年から9年計画で15億円を超す費用をかけて廃線敷の活用に乗り出しています。

注:JR可部線可部駅~三段峡駅間廃止
P1300022 可部線の現存区間は、私鉄が開業した区間を1936年に国有化したもの。  なお、可部駅~三段峡駅間の延伸は太平洋戦争前から計画され、将来は島根県浜田市までの延伸(今福線)が構想されていた。

  戦中、戦後の混乱期を経て、可部駅~三段峡駅間(46.2km)が非電化で開通したのは1969年である。 
  しかし、その前年には国鉄諮問委員会が提出した意見書で、可部~加計間が鉄道としての「使命を終えた路線」、いわゆる赤字83線に挙げられ廃止勧告を受けていた経緯があった。

  その後民営化され、JR西日本は利用者の減少が続く可部駅~三段峡駅間について廃止の方針を打ち出していたが、地元の熱心な存続運動もむなしく'03年11月30日限りで廃止された。

  私は'60年ごろから当時の可部駅~加計駅間('69年後は三段峡駅間)を利用していたので、存続運動の際は可部カラスの会会員及び個人として運動に関わってきた。   
  
《ふるさとの地名俳句》 
【旧戸河内町】里神楽くるりひらりと神宿る   森本 貴則
【三段峡】滝涸れて一糸まとはぬ乙女岩    佐藤 多々子  
※可部駅~三段峡駅間廃止から4年、かつての終着駅の町、名勝は今…
 

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2007年11月24日 (土)

■【可部情報】11/4 第4回可部の町めぐりイベントで「可部新八景候補」投票を実施(可部カラスの会)

◆可部を愛し、可部を誇りに思うシンボル「可部新八景候補」募集に取組中(広島市安佐北区)  

▼いま、なぜ可部新八景候補募集なのか 

   中世に熊谷氏の築いた高松城の城下町として発展を始め、昭和初期までの可部町は東西約100m、南北約1kmの小さな細長い町でした。

   出雲・石見街道の交通の要衝として、舟運も発達し、陰陽の物流拠点として、商業・宿場町として栄えた可部町は、“昭和の合併”によって合併前の可部、亀山、三入、大林に代表される町域にまで広がりました。

   人に個性があり、誇りがあるように、地域にも個性があり、誇るものがあります。  可部地域(広島市へ合併前の旧可部町域)には豊かな自然・人文資源があります。 

   まちづくり市民グループ「可部カラスの会」(当会と略する。私も会員)では、時代に適応したビジュアルな(目に見える)景観による「可部新八景候補」(仮称)を、可部に住む人々や可部を訪れる人々から投票によって募集し、可部を愛し、可部を誇りに思うシンボルとして可部新八景を選定し、「景観によるまちづくり」を提唱して、その実現に取り組みたいと考えています。

   07年度は提唱している当会で可部新八景候補の募集を行い、08年度はご賛同いただける団体等により「可部新八景選定投票実行委員会」(仮称)を結成して、広く住民、来訪者等に投票を募集して選定する予定です。
   なお、選定後は可部地域の観光・交流資源として、地域活性化に役立てることを目標にしています。

▼11/4の可部新八景候補の投票受付は好調
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当会では07年7月から可部新八景候補の募集を始めていますが、11月4日の第4回可部町めぐりの協賛行事として、旧街道(最近は「夢街道」と呼称)の軽食・喫茶「可笑屋」(かわらや)の表側駐車場を借りて、10時から15時まで5時間にわたり可部新八景候補の投票を受付けました。

   当日は幸いに天気が良かったので、メイン行事である可部町めぐりの来訪者が、夢街道の沿道に多く溢れていました。

   見どこである古民家(18戸)、神社仏閣(6寺社)に加えて、かつて高松城防衛のため設置された「折目」(街道をクランク状に曲げて通り難くしてある)などの街並み、夢街道裏小路の通称花の散歩道、文化財、史跡、伝統の鋳物・山繭・酒・醤油などに関連した施設の公開など、合計41か所の見学場所をそれぞれ個人、家族、グループが三々五々巡っていました。

    可部新八景候補の投票会場である可笑屋は、築150年の山繭を扱っていた商家を改造して、数年前から福祉系NPO法人が軽食・喫茶及び展示場、音楽会などのサロンとして運営しています。

    その表側駐車場を借りて投票場を設けましたので、大勢の町めぐり来訪者に立ち寄っていただきました。    特に可笑屋は当日軽食・喫茶の他にサロンを使って可部の町かど絵画展、写真展や畳敷きの和室を使って落語家のチャリティ落語会を開き、裏庭のテントではおにぎりの販売をするなど、施設をフル活用してお客様を集めました。
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また、町内2軒の酒造メーカーの酒蔵における銘酒の味利きやお寺の庫裏で中庭を鑑賞しながら琴の演奏を聞いたり、住民が住んでいる古民家の公開など、普段では出入りしにくい施設に出入りできてこちらも大人気でした。   その好影響もあって、可部新八景の投票者は5時間で300人を超えました。 

   特に、投票の参考に展示した候補写真のうちで、可部カラスの会会員家族が高松山頂上(標高339m、頂上に高松城跡あり)に上って撮影した、約17km遠方の広島市中心部に聳え立つ高層ビル、更にその向こうに見える宇品方面の瀬戸内海と島々の眺望写真は、好天でなければ山の頂上から見えない貴重な写真としても好評でした。

   翌日、可部新八景を投票された方に町内でお目にかかった際、「山頂から瀬戸内海や島々が見えるのなら、一度好天の日に登山して眺めてみたいと友人と話した」といわれました。

   可部新八景候補の募集が、住民や来訪者に対して改めて可部の景観に関心を持っていただく機会になったのなら幸いでした。

《写真提供》可部カラスの会

                       

                                                      

                                                                    
 

  

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2006年8月11日 (金)

■【可部情報】全国でも珍しいガラスのワンダ-ランドを訪ねて(「ガラスの里」)

◆遊んで学ぶ…見て・作って・楽しむガラス工芸(広島市安佐北区)
 8月上旬の梅雨明けに、自宅から車で10数分のガラスの里(広島市安佐北区大林・国道54号沿い)へ家人二人(妻・娘)と行きました。ガラスの里は近いのでこれまで二人の子どもを連れて、家族四人でたびたび来たことがありますが、子どもが社会人になってからの親子連れは初めてです。

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ガラスの里は数年前から入場無料(博物館・美術館の2施設のみ有料)となり、以前から無料の大型駐車場と併せて、「0円ワンダ-ランド」になりました。その他に、建物や庭園にも創意工夫がこらしてあり、例えばヴェネツィア館では前庭に運河を作ってゴンドラを浮かべるなど、異国情緒あふれる園内を散策するだけでも楽しい時間が過ごせます。

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ただし、園内には有料の博物館・美術館を始めとして、ビ-ズ館(世界のビ-ズ販売・手芸工房)、世界のガラス館(ガラスの鑑賞品、お土産品)、吹きガラス工房(一輪ざし・ビ-ルジョッキ等製作費1回3,200円)、創作工房(マドラ-製作費5本セット1,100円)、ガラス工房(ステンド・七宝)、お土産館(広島銘菓、特産品等)、レストラン、飲物コ-ナ-等が あり、「見るだけ」と思っていてもいつのまにか財布の口が開いてしまいます。

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 わが家は女性二人がガラスのアクセサり-、私は広島清酒と同様に愛飲する黒糖焼酎用の重厚なグラスを買いました。焼酎用の高価な本格クリスタルグラスや国の伝統的工芸品に指定されている、江戸切子のグラスも販売されていましたが、これらは「今回は見るだけ」にしました。

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隣接して、当ガラスの里を運営している、世界有数のグラスピ-ズメ-カ-「ト-ホ-株式会社」のト-ホ-記念館( グラス-ズの原管、ビ-ズ等の製品展示)、ビ-ズ博物館(世界のビ-ズ専門博物館)があります。こちらは最近注目されている産業観光の一形態といえましょう。

 詳しくはHP「ガラスの里」をご検索ください。

《季節の俳句》【風鈴】風鈴や めつむりおもう ひととの距離  加藤楸邨・野哭
※加藤楸邨(かとう・しゅうそん)俳人。1905-1993年。旧制中学の教師時代に、同僚に誘われ俳句を始める。最初は自分と同じく短歌から俳句に入った水原秋桜子に師事し、後にいわゆる“人間探求派”として中村草田男らと共に、人間の内面の表現追求を生涯続けた。


 

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