■【名言・名句】「指導者は“世間は正しい”という考えに立たなくてはならない」(松下電器の創業者・松下幸之助)
◆現在の政治、経済、社会に求められる“世間に従う”生き方・考え方の実践
▼松下幸之助「創業の地」跡を訪ねて
3年前からNPOの中間支援を行う大阪NPOセンターの認定NPOコンサルタントとして、大阪市内のNPO法人に対してコミュニティビジネス(CB=住民主体の地域事業)創業・運営の指導に携わっています。 センターの事務所が大阪市福島区内にあるため、事務所への行き帰りにJR野田駅や阪神野田駅をよく利用します。

04年夏のある日に初めて阪神野田駅へ下車し、改札口を出て道路向かい側の駅前通り商店街入口に目を向けた時、目に飛び込んだ横断幕がありました。
それには「松下幸之助(注)創業の地 記念碑」と書いてあり、初めて松下幸之助(以下、「幸之助」と略記)の創業地がすぐ近くにあることを知りました。 そこで、駅前通り商店街に入ってみました。
商店街に入ると、「福島区大開は松下幸之助さんの創業の地です」という看板が掲げてあり、さらに進むと幼稚園の隣りの公園内に創業の地跡の説明板や石碑が建っていました。
松下幸之助の「経営語録」は無数といってよいほど多くあり、私も企業経営者、管理者の講演、研修の際に、経営語録をよく引用しています。 また誰にでも通用する「人生語録」はさらに多いことで知られています。 松下電器創業の地跡にご関心のある方は、ぜひお立ち寄りください。
(※先に、文末注記の創業期までの職歴欄をご覧ください) 1918年、幸之助は広い家を求めて現・福島区大開に移転し、「松下電気器具製作所」の看板を掲げました。 この大開の地が「松下電器創業の地」とされています。
引き続き扇風機の碍盤を製作する傍ら、「改良アタッチメントプラグ(通称アタチン)」「2灯用差し込みプラグ」という二つのヒット商品を開発し、ここに今日の松下電器の基礎が出来上がりました。 因みに、1918年12月末の従業員数は20人でした。
その後、幸之助は新製品開発に力を注ぎ、1929年に社名を「松下電気製作所」と改称しました。 1932年に現・門真市に移転し、1935年に現在の「松下電器産業株式会社」に改称しました。
その後、当社は世界恐慌の影響、太平洋戦争中の軍需品中心の生産体制、戦後の占領軍下の統制期など幾多の困難を乗り越えました。
1989年に幸之助が94歳で永眠後も、松下電器産業は成長発展を続けています。
▼松下幸之助は自らの「道」を切り開いた
幸之助は晩年、自らが揮毫した「道」という字の下に、次のような文章を付した色紙を身近に掲げていました。
福島区大開の創業の地跡の公園にも、この「道」の石碑が建っています。
石碑は上部に「道」と大書してあり、その下に
自分には
自分に与えあられた道がある
広い時もある
せまい時もある
のぼりもあれば くだりもある
思案にあまる時もあろう
しかし 心を定め
希望をもって歩むならば
必ず道はひらけてくる
深い喜びも
そこから生まれてくる
松下幸之助
と文章が刻んでありました。 数々の困難を乗り越え、松下幸之助は自らの「道」を切り開いたのです。
▼松下幸之助の名言「世間は正しい」 の実践

最後に、冒頭のタイトルに掲げた「指導者は“世間は正しい”という考えに立たなくてはならない」について、著書『指導者の条件』からその要点を述べてみます。
『指導者の条件』目次には「世間に従う」と出ていますが、本文では「(豊臣)秀吉の軍師として、秀吉の天下統一に大きな力となった智将・黒田如水がこういうことを言っている」という書き出しで、「神の罰より主君の罰の方が恐ろしい。主君の罰より臣下領民の罰の方が恐ろしい。
なぜなら、神の罰は祈りによって免れることができる。 主君の罰はわびて許しを受けることができる。 しかし、臣下領民にうとんじられては、祈ってもわびてもいかんともしがたく、必ず国を失うことになるだろう。 だからこれがいちばん恐ろしいのだ」と引用してあります。
すなわち、「非常に多数の人からなる世間だから、いったん信用を失い、うとんじられたら、それを回復することは非常に難しい」と幸之助は述べています。
昨今の政治家の私利私欲、政党の党利党略等による政治不信、企業の法令違反等による信用失墜あるいは社会生活におけるルール違反等による迷惑行為は、全く世間を無視した行為で嘆かわしいことです。 何事にも“世間は正しい”という生き方、考え方の実践が望まれます。
注【松下幸之助】( まつした・こうのすけ) (1894-1989) 松下電器産業を一代で築き上げた経営者。 また、政治家の育成にもあたり、松下政経塾を創設しました。 PHP研究所の創立者です。
〔創業期までの職歴〕 幸之助は小学4年で中退して、9歳で大阪の火鉢店へ奉公しましたがわずか3か月で店の閉鎖に遭い、そこの親方の紹介で自転車を扱う商店に奉公しました。 しかし、電気事業の将来性に着目して5年4か月で商店を辞めました。
その後、15歳の幸之助は約3か月間セメント会社の臨時運搬工を経て、約7年間大阪電燈の職工、事務員、検査員を務め、勤め人生活に終止符を打ちました。
1917年、22歳になった幸之助は約100円の独立資金を作り、工場は当時の自宅借家(現・大阪市生野区)4畳半の半分を土間にし、元同僚2人及び義弟・井植歳男(後の三洋電機株式会社創業者)と共に、大阪電燈勤務時代に自ら考案して実用新案を取っていた改良ソケットの製造を始めました。 しかし、ソケットは完成するがまったく売れず、2人の元同僚が去っていきました。
幸い年末に扇風機の部品(碍盤)の注文が入り、年が明けると直ぐに追加注文が入って、幸之助は意外なところから運が開けたことに感動すると共に電気器具の製作に本腰を入れて取り組んでいくことを決心しました。
《出 典》松下幸之助著『指導者の条件』PHP研究所、雑誌『ほんとうの時代』(1997.8特別増刊号)PHP研究所ほか
《松下幸之助の誕生日》 1894年11月27日生まれ
《誕生日の花と花言葉》 アゼトウナ(キク科)変わらぬ愛
《誕生花の短歌》 アゼトウナ黄色輝くひとひらを いつくしむ二人ともに老いつつ 鳥海 昭子
《出 典》NHK『ラジオ深夜便ー誕生日の花と短歌365日』
(文中敬称略)
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