2007年5月31日 (木)

■【名言・名句】「指導者は“世間は正しい”という考えに立たなくてはならない」(松下電器の創業者・松下幸之助)

◆現在の政治、経済、社会に求められる“世間に従う”生き方・考え方の実践
▼松下幸之助「創業の地」跡を訪ねて 
    3年前からNPOの中間支援を行う大阪NPOセンターの認定NPOコンサルタントとして、大阪市内のNPO法人に対してコミュニティビジネス(CB=住民主体の地域事業)創業・運営の指導に携わっています。  センターの事務所が大阪市福島区内にあるため、事務所への行き帰りにJR野田駅や阪神野田駅をよく利用します。
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   04年夏のある日に初めて阪神野田駅へ下車し、改札口を出て道路向かい側の駅前通り商店街入口に目を向けた時、目に飛び込んだ横断幕がありました。  
   それには「松下幸之助(注)創業の地 記念碑」と書いてあり、初めて松下幸之助(以下、「幸之助」と略記)の創業地がすぐ近くにあることを知りました。  そこで、駅前通り商店街に入ってみました。 
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  商店街に入ると、「福島区大開は松下幸之助さんの創業の地です」という看板が掲げてあり、さらに進むと幼稚園の隣りの公園内に創業の地跡の説明板や石碑が建っていました。
    松下幸之助の「経営語録」は無数といってよいほど多くあり、私も企業経営者、管理者の講演、研修の際に、経営語録をよく引用しています。  また誰にでも通用する「人生語録」はさらに多いことで知られています。    松下電器創業の地跡にご関心のある方は、ぜひお立ち寄りください。

Dsc00835_2     (※先に、文末注記の創業期までの職歴欄をご覧ください)  1918年、幸之助は広い家を求めて現・福島区大開に移転し、「松下電気器具製作所」の看板を掲げました。    この大開の地が「松下電器創業の地」とされています。 
   引き続き扇風機の碍盤を製作する傍ら、「改良アタッチメントプラグ(通称アタチン)」「2灯用差し込みプラグ」という二つのヒット商品を開発し、ここに今日の松下電器の基礎が出来上がりました。  因みに、1918年12月末の従業員数は20人でした。
  
    その後、幸之助は新製品開発に力を注ぎ、1929年に社名を「松下電気製作所」と改称しました。   1932年に現・門真市に移転し、1935年に現在の「松下電器産業株式会社」に改称しました。
    その後、当社は世界恐慌の影響、太平洋戦争中の軍需品中心の生産体制、戦後の占領軍下の統制期など幾多の困難を乗り越えました。  
    1989年に幸之助が94歳で永眠後も、松下電器産業は成長発展を続けています。

▼松下幸之助は自らの「道」を切り開いた
Dsc00843_1    幸之助は晩年、自らが揮毫した「道」という字の下に、次のような文章を付した色紙を身近に掲げていました。   
福島区大開の創業の地跡の公園にも、この「道」の石碑が建っています。

    石碑は上部に「道」と大書してあり、その下に
       自分には  
       自分に与えあられた道がある
       広い時もある  
       せまい時もある
       のぼりもあれば くだりもある
       思案にあまる時もあろう
       しかし 心を定め 
       希望をもって歩むならば
       必ず道はひらけてくる
       深い喜びも
       そこから生まれてくる
                     松下幸之助
と文章が刻んでありました。   数々の困難を乗り越え、松下幸之助は自らの「道」を切り開いたのです。
  
松下幸之助の名言「世間は正しい」 の実践
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   最後に、冒頭のタイトルに掲げた「指導者は“世間は正しい”という考えに立たなくてはならない」について、著書『指導者の条件』からその要点を述べてみます。

   『指導者の条件』目次には「世間に従う」と出ていますが、本文では「(豊臣)秀吉の軍師として、秀吉の天下統一に大きな力となった智将・黒田如水がこういうことを言っている」という書き出しで、「神の罰より主君の罰の方が恐ろしい。主君の罰より臣下領民の罰の方が恐ろしい。   

   なぜなら、神の罰は祈りによって免れることができる。  主君の罰はわびて許しを受けることができる。   しかし、臣下領民にうとんじられては、祈ってもわびてもいかんともしがたく、必ず国を失うことになるだろう。   だからこれがいちばん恐ろしいのだ」と引用してあります。

   すなわち、「非常に多数の人からなる世間だから、いったん信用を失い、うとんじられたら、それを回復することは非常に難しい」と幸之助は述べています。 
  
   昨今の政治家の私利私欲、政党の党利党略等による政治不信、企業の法令違反等による信用失墜あるいは社会生活におけるルール違反等による迷惑行為は、全く世間を無視した行為で嘆かわしいことです。   何事にも“世間は正しい”という生き方、考え方の実践が望まれます。
  
注【松下幸之助】( まつした・こうのすけ) (1894-1989) 松下電器産業を一代で築き上げた経営者。 また、政治家の育成にもあたり、松下政経塾を創設しました。 PHP研究所の創立者です。

〔創業期までの職歴〕  幸之助は小学4年で中退して、9歳で大阪の火鉢店へ奉公しましたがわずか3か月で店の閉鎖に遭い、そこの親方の紹介で自転車を扱う商店に奉公しました。  しかし、電気事業の将来性に着目して5年4か月で商店を辞めました。
  その後、15歳の幸之助は約3か月間セメント会社の臨時運搬工を経て、約7年間大阪電燈の職工、事務員、検査員を務め、勤め人生活に終止符を打ちました。 
  
   1917年、22歳になった幸之助は約100円の独立資金を作り、工場は当時の自宅借家(現・大阪市生野区)4畳半の半分を土間にし、元同僚2人及び義弟・井植歳男(後の三洋電機株式会社創業者)と共に、大阪電燈勤務時代に自ら考案して実用新案を取っていた改良ソケットの製造を始めました。  しかし、ソケットは完成するがまったく売れず、2人の元同僚が去っていきました。

   幸い年末に扇風機の部品(碍盤)の注文が入り、年が明けると直ぐに追加注文が入って、幸之助は意外なところから運が開けたことに感動すると共に電気器具の製作に本腰を入れて取り組んでいくことを決心しました。

《出 典》松下幸之助著『指導者の条件』PHP研究所、雑誌『ほんとうの時代』(1997.8特別増刊号)PHP研究所ほか

《松下幸之助の誕生日》 1894年11月27日生まれ
《誕生日の花と花言葉》 アゼトウナ(キク科)変わらぬ愛
《誕生花の短歌》 アゼトウナ黄色輝くひとひらを いつくしむ二人ともに老いつつ  鳥海 昭子
《出 典》NHK『ラジオ深夜便ー誕生日の花と短歌365日』 
(文中敬称略)

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2006年12月17日 (日)

■【名言・名句】多くの人々が「人生の師」と仰ぐ、“念ずれば花ひらく”の詩人・坂村真民先生の一念の言葉

◇“人はどう生きるべきか”を一生の命題とした祈りの人  
  先日の新聞訃報欄に「(12月)11日、(真民先生が)老衰のため(ご自宅のある)愛媛県砥部町の病院で死去(された)。97歳」と報じられていました。   
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真民先生(注①)の座右の銘“念ずれば花ひらく”(注②)は余りにも有名で、真民先生の分かりやすく、深く掘り下げられた詩は、年齢、職業を問わず幅広く愛唱されています。
  先生の詩の愛好者などによって建てられる真民詩碑は、日本全国で680基を超え、いまなお増え続けているようです(注③)。<写真説明は文末の追補>
 
  私が真民先生のお名前を存じ上げたのは今から30年前でした。 当時はコンサルティングファ-ムに在籍していて、大手企業から中堅・中小企業までの経営診断・経営指導等に追われていました。 そのため、経営書や経済誌以外は余り目を通すことがありませんでした。  ところが、ある日行きつけの書店の店頭で“人間学を学ぶ雑誌”『致知』の創刊を知り、早速創刊号から書店で予約購読を始めました。 

 その後、『致知』の愛読者が自主運営する集いである「木鶏クラブ」を広島市内に設立する機運が高まりました。 当時いくつかの社外勉強会で知り合ったE氏から私に広島木鶏クラブ設立共同発起人の依頼があって、設立後の広島木鶏クラブの勉強会にも参加するようになりました。

  それからは、雑誌の『致知』や「木鶏クラブ」の会合で真民先生の詩や先生に関係した文章に接する機会が多くなり、いつしか「真民先生」とお呼びするようになりました。

 今回、真民先生の多くの詩の中で次の一編はぜひ掲げてみたいものです。 
            延命の願        坂村 真民
   私は延命の願をしました
   まず初めは啄木の年を越えることでした
   それを越えることができた時
   第二の願をしました
   それは子規の年を越えることでした
   それを越えた時
   第三の願をしました
   お父さん
   あなたの年齢を越えることでした
   それはわたしの必死の願いでした
   ところがそれも越えることができたのです
   では第四の願は?
   それはお母さん
   あなたのお年に達することです
   もしそれを越えることができたら 
   最後の願をしたいのです
   それは世尊と同じ齢まで生きたいことです
   これ以上決して願はかけませんから
   お守りください

     啄木27、子規36、父42、母72、世尊80  
     ※世尊とは仏陀・釈迦の敬称

  小さいときからお体が弱く、とても長生きは無理といわれていただけに、「生きる」ことは痛切な先生の願いでした。  その願いを遥かに越え、先生は97歳の天寿を全うされました。 

  さらに付け加えるならば、真民先生が『自選坂村真民詩集』を出される前に、自費出版で毎年1冊ずつ、10冊も詩集を出された際、最後の10冊目を出された時に、真民先生が師事しておられた森信三先生(注④)が、真民先生のために連作短歌5首を作って贈られたというエピソードがあります。 

  その後、森信三先生は96歳で亡くなっておられます。 もし、極楽浄土でお二人が再会されたら、どんな会話が交わされるのでしょうか。  謹んでご冥福をお祈り申しあげます。


注①【坂村真民】 (さかむら・しんみん)本名昴(たかし)。1909年熊本県生まれ。8歳の時、小学校の校長をしていた父親の急逝によりどん底の生活に落ちる。5人兄弟の長男として母親を助け、幾多の困難と立ち向かい、甘えを許さぬ一徹さを身につける。

  1931年、神宮皇学館(現皇学館大学)を卒業。25歳の時、朝鮮にて教職につき、36歳、全州師範学校勤務中に終戦を迎える。1946年から愛媛県で高校の国語教師を勤め、65歳で退職。以後詩作に専念する。
 最初は短歌を志し、四国移住後、一遍上人の信仰に随順して仏教精神を基本とした詩の創作に転じる。

注②詩【念ずれば花ひらく】     
       念ずれば花ひらく      坂村 真民
  苦しいとき
  母がいつも口にしていた
  このことばを
  わたしはいつのころからか
  となえるようになった
  そうしてそのたび
  わたしの花がふしぎと
  ひとつひとつ
  ひらいていった

 ※「念ずれば花ひらく」の詩が生まれたのは、真民先生が46歳で目を患い、母の労苦に報いることなく病気になったことを深く思い悲しんでいた時であった。

 この詩は、翌年に出版した『赤い種』という詩集に出ている。 真民先生が母の苦闘苦難に報いようと思い、母の名「タネ」を題名に入れて、母の霊に捧げたものであるといわれている。

注③【真民詩碑の数】 月刊誌『致知』2004年2月号特集:一道を行く~「坂村真民の世界」~片山克著『坂村真民小伝記』より。

注④【森信三】 (もり・しんぞう)哲学者・教育学者。1896年愛知県生まれ。戦後、神戸大学教授、神戸海星学院大学教授を歴任。1975年「実践人の家」建設。1992年逝去。  その生涯から「人生二度なし」の真理を根本信条とし、「全一学」という学問を提唱した。

≪参考文献≫『致知』2004年2月号ほか

《追 補》 真民先生が永眠されて11日後の12月22日、坂村真民著『坂村真民一日一言』(致知出版社)が発売されたことを、書店の店頭にうず高く並んだ本の山で知り早速買い求めました。

  去る9月のブログに載せました『安岡正篤一日一言』(致知出版社)と同じ形式で366日(2月29日含む)に分けて、真民先生の“人生の詩、一念の言葉”がちりばめてあります。
  その中から、1月1日の「一言」をご紹介します。

   願 い  
  日本を
  楽しい国にしよう
  明るい国にしよう
  国は小さいけれど
  住みよい国にしよう
  日本に生まれてきてよかったと
  言えるような
  国造りをしよう
  これが21世紀の日本への
  私の願いだ

  これまで『安岡正篤一日一言』は自宅の書架に置いて読んでいますが、『坂村真民一日一言』は愛車内の別注BOXへ置いて、専ら車旅の寸暇に読もうと思います。


 
 

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2006年9月 3日 (日)

■【名言・名句】東洋思想家『安岡正篤一日一言~心を養い生を養う』を読む

◆待望の“安岡正篤語録のエッセンス”出版される
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6月上旬、近くの書店の新刊コーナーで安岡正泰監修『安岡正篤一日一言~心を養い生を養う』 (致知出版社)を目にし、予てより安岡正篤先生(注①)に私淑している私は即座に購入しました。
 安岡先生の青年時代から死去されるまでに書かれた著作や講演・講義資料からの言葉を抜き出して、安岡語録のエッセンスとして取りまとめてあります。私は毎日その日の一言を読むように心がけていますが、きっとあなたの心の琴線に響く言葉が見つかるはずです。

 私は1970年に経営コンサルタントとなった当初から、東京を始めとした各地における、いわゆる「サラリーマンの社外勉強会」に深い関心を寄せていました。

 中でも、後(91年)に広島の勉強会へお招きできた下村澄先生(注②)が、安岡正篤師を囲む「不味(ふまい)会」の世話人となって、71年に勉強会を発足されたことを数年後に知りました。当時、新聞や経済誌に載る各地の勉強会の記事を見ては、参加したい気持ちが募るばかりでした。(下村澄先生との出会いについては今後稿を改めて掲載します)
 
 そこで、79年夏に私を含めて数人が設立発起人となり、広島市内や市周辺の地場大手企業・中堅・中小企業の人脈を通じて、経営者・ビジネスマンの社外勉強会を立ち上げました。この広島市内における社外勉強会が、現在まで27年間続いている「知的戦略を語る会」です。勉強会は、主にゲスト・会員が講話を行い、その後懇親会の方式です。(私は設立以来25年間会の事務局長を務め、2年前に二代目事務局長へバトンタッチしました)

 その後、しばらく経って私も設立発起人の一人として、広島市内に発足した東洋思想の読書会で、安岡先生の著書やその他の先生の著書が、読書会の教材として用いられました。そのころから私は安岡先生に私淑し、いわゆる、「安岡本」(安岡先生の著書、講演・講義録の編著書、先生に師事した門下生の著書、他人による評伝などの総称)が書棚へ次第に増えていきました。
 
  しかし、安岡先生の著書には、戦前や戦後間もなくの出版あるいは復刻版で旧仮名遣いもあります。特に東洋思想に関する著書は、読み手にも中国古典の素養が求められ、浅学な者にとって読破は難解でした。
 一方、安岡先生は戦後、数多くの勉強会を結成されて、政財界関係者等へ毎日のように講義・講演をされていたそうです。しかも、それと時を同じくしてご自分で執筆することを止められたと聞いております。
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例えば、私の手元にある著書『陽明学十講』(1981年・二松学舎出版部)については、「例言」で「第一講は先生の別の陽明学著書から、第二講は他出版社発行の陽明学本の安岡先生解説部分から、第三講以降は先生の論説・講演を全国師友協会機関誌からの抄録」と付記してあります。

 このように安岡先生の講義・講演を編集した書籍は、東洋思想の難しい話もわかりやすく記述してあります。『安岡…一日一言』10月2日の一言は「縁尋機妙 多逢聖因」(えんじんきみょう・たほうしょういん)です。解説では「人間できるだけいい機会、いい場所、いい人、いい書物に会うことを考えなければならない」と意訳されています。
 『安岡…一日一言』を入門書として、「安岡本」へと進まれる方が多くなるのではないかと思っています

 これからの“読書の秋”に、お互い「安岡本」の読破に挑戦したいものです。 
 
注①安岡正篤(やすおか・まさひろ)  1898年大阪市生まれ。帝国大学法学部政治学科卒業。東洋宰相学・人物学・陽明学等の権威。1927年(財)金鶏学園、31年日本農士学校を設立、東洋思想の研究と後進の育成に努められる。戦後、49年師友会を設立、政財界のリーダーの育成・強化に努め、その精神的支柱となられる。
その教えは人物学を中心として国民の各層に深い感化を及ぼし、国民的教育者として今日なお日本の進むべき方向を示しておられます。1983年死去。

注②下村澄(しもむら・きよむ) 1929年佐賀県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。大阪テレビを経て、(株)毎日放送入社。 秘書部長・社長室長・局次長及び日中ビデオネットワーク取締役、(社)ニュービジネス協議会専務理事を歴任。(株)ビジネス情報センター元代表取締役。不味会を始め多くのインフォーマル・グループの仕掛け人・演出者として“会魔”とも称され、230を超える勉強会の横断的組織「知恵の輪」の代表を務められました。

  

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2006年7月26日 (水)

■【名言・名句】人間だもの~「心の言葉・相田みつを展」を観て(筆の里工房)

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◆「言葉」と「書」による感動空間(広島県熊野町)
子ども達が夏休みに入った7月下旬の土曜日、広島市郊外の熊野町筆の里工房で開催中(~9月3日)の「相田みつを展」へ、家人と車で行きました。

開催案内チラシには、「こどもたちと一緒に…、一人癒しを求めて…、あなたの大切な人とお出かけください」とありましたが、会場には親子連れ、成人女性グル-プ、中高年夫婦、若い男女等が訪れていました。

 相田みつを(1924-1991年)は、自分の言葉での書表現を追求して独自のスタイルを確立した書家と呼ばれています。例えば、「つまづいたっていいじゃないか にんげんだもの」は、“心の言葉”としてわれわれの心を捉えて離しません。

相田みつをの初著作・出版物は『にんげんだもの』(1984年刊)でしたが、その後100万部を超えて代表作となりました。同書はわが家の書架に『しあわせはいつも』、『雨の日には…』(遺作集)などと並んでおり、今も大切に保管して時々読み返しています。

私にとって、相田みつをのこれら数多くの“心の言葉”は人生の指針であり、かつ経営コンサルタントとして経営者・経営幹部等を指導・助言する際の箴言ともなります。最近は

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あなたにめぐりあえてほんとうによかった
ひとリでもいい
こころからそういってくれるひとがあれば

みつを

をよく引用します。

なお、関連して「筆の里工房」(広島県熊野町)、 「相田みつを美術館」のHPをご覧ください。



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2006年5月15日 (月)

■【名言・名句】人を見抜く眼力とは(武田信玄)《トンパ文字添付》

◆戦国武将、武田信玄の人物鑑定法
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  先日の新聞報道で「共同通信社が5月13、14の両日に実施した全国電話世論調査によると、小泉純一郎首相の次の首相にふさわしい人は、安倍晋三官房長官が40.1%(前回4月調査51.9%)でトップを維持したものの、福田康夫元官房長官が31.4%(同22.1%)と差を前回調査の29.8ポイントから20ポイント余り縮め、急接近した。(中略)中国や韓国との関係改善など小泉外交の立て直しに意欲を示す福田元官房長官の言動が好感を持たれ、支持拡大につながったようだ」(中国新聞06.5.16付朝刊) と、伝えています。(冒頭の象形文字の説明は文末)

ご承知のように、“ポスト小泉”の後継候補者としては自民党の「麻垣康三」の4人、すなわち麻生太郎外相、谷垣禎一財務相、福田康夫元官房長官、安倍晋三官房長官が噂されていますが、前掲の世論調査の数字では福田元官房長官が安倍官房長官の対立候補に位置づけられ、麻生外相は4.5%(同5.8%)、谷垣財務相は2.7%(同2.9%)と、二人とも支持率が低い状況です。

ところで、世論調査の回答者は4人の何を基準に「ふさわしい人」として支持したのでしょうか。人格、識見、容貌、言動、政治姿勢、国会議員・政府閣僚・党役員などの経歴等々について、自分なりの“物差し”を当てはめたことは間違いありませんが、新聞記事の内容からは回答者各人の知見は分かりません。
人を見抜く眼力は、いつの時代においても一人の人間、社会人、職業人として備えていなければなりません。本稿では、戦国時代の甲斐(山梨)の武将、武田信玄(注)の人物鑑定法についてご紹介します。

信玄は忠節の志の厚い若侍6人を選び出し“耳聞き”(みみきき)と名付け、側近くに置いて人事百般にわたる情報を提供させていました。その上、常日頃から領内の様子や家臣の状態を自ら観察しては心にとめて、更に関係者にくどいほど問いただして、部下の人柄や才能を評価していました。このような実証的積み上げから、信玄は「人を見そこないがちな場合7箇条」を挙げて人事管理面での注意を促しています。

《信玄の「人を見そこないがちな場合7箇条」》(現代文に要約)
1.ぼやっとしている人を、よく落ち着いている人に見そこなうものだ。
2.軽はずみな人を、すばしこい人に見そこなうものだ。
3.グズな人を、よく沈着な人に見そこなうものだ。
4.軽はずみで早合点をしそうな人を、賢い人に見そこなうものだ。
5.らちのあかぬ人を、落ちついた人に見そこなうものだ。
6.思慮もなく物をいう人は、同僚や身内の役に立つよいことはいわず、自分に物を呉れたり機嫌を取る人をうれ しがり、仲がよければ悪人でも褒める。思慮のない人を、よくさばけた人に見そこなうものだ。
7.信念のない人は、自分が知らないことを見てきたように話し、ことのほか強情である。これをよい武士の我が 強くて、剛強武勇な人に見損なうものだ。

と、人物鑑定法を述べています。貴方の人物鑑定法はどんなやり方でしょうか。

《信玄の家訓》 人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり

(注) 武田信玄(たけだ しんげん)は甲斐、信濃に勢力を広げました。しかも、近隣の武将と戦うだけでなく、領内の民政を巧みに治めて治山、治水などにも意を注ぎ名領主としても知られています。
残念ながら、当時の多くの戦国武将が夢みた上洛(京に上って天下をとること)の途上において病没しました。しかし、信玄の作った法制、軍略、一般行政の多くは、武田家滅亡の後も徳川家によって引き継がれ、その規範とされました。

 参考文献:藤田 忠著『歴史に学ぶ人材活用法』ダイヤモンド社 

【象形文字の説明】中国雲南省ナシ族が昔から祭祀などに用いているトンパ文字で、「目」を意味します。筆者は数年前からトンパ文字に親しんでいます。名言・名句という堅い文面に“ゆとり”を持たせるため、今後画像の無い場合は文面に関連したトンパ文字を一文字添付します。
【出典】王 超鷹著『トンパ文字』~もう1つの象形文字~(マール社)   (完)


  


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2006年4月22日 (土)

■【名言・名句】人間の器は出所進退で決まる(評論家・伊藤 肇)

◆進むときには人に任せ、退くときには自ら決せよ(越後長岡藩家老、河井継之助の言葉)
世間では、政界、財界等のトップの出所進退が取り沙汰されることが常です。既に国政では自民党小泉総理・総裁が今年9月退任を明言、民主党は「送金指示」メ-ル問題で国民に愛想を尽かされ、前沢執行部が総退陣して小沢執行部へ交代、その他の政党で後進への禅譲によるトップ交代が噂されています。

 一方、財界では企業業績不振、自らの健康問題等による退任や取締役から反旗を翻されて無念の退任劇等複雑な社内事情によるトップ退任もあります。今後開かれる定時株主総会では、今年も多くのトップが交代することでしょう。

一般に出所進退と言うのは「官職や地位にとどまっていることと、辞めて退くこと。身のふり方や身の処し方。▽「出」は世に出て使える意。「処」は官につかずに家にいる意。なお、『進退出処』とも言います」。(注1)
進退については、「進むときには人に任せ、退くときには自ら決せよ」(越後長岡藩家老、河井継之助の言葉)が、出所進退の原則と言われています。

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評論家の故伊藤肇氏(注2)は著書『帝王学の源流~十八史略を読む~』の中で、出所進退について「これは越後長岡藩の家老、河井継之助の言った言葉ですが、退くときに相談をしたら、これはもう『やめるな』と言うに決まっている。『やめようと思うが、どうか』と持ちかけられて、『それはいい時期だからぜひおやめなさい』などと言うのは、まず、いません。『まだまだ、おやめになるのは早すぎます』と言って、とめるのが相場です。
それをいいことにして、いや、それを唯一の理由として居座ったら、間違いなく醜態をさらす結果となります」と述べています。引き際を見事に飾った人と引き際を誤った人とでは、まさに天と地ほど評価が違います。

 中国の古典『老子』に「功なり名遂げて身退くは、天の道なり」という言葉があります。一般に人間は地位や権力を手にするとなかなかやめませんが、本当はそれが難しいから洋の東西を問わず、これまで「男の引き際」について数多くの箴言が生れたのでしょう。

去る4月18日夜試合終了後の野球場のお立ち台で、プロ野球日本ハム新庄選手が「今シ-ズンでユニフォ-ムを脱ぐ」と突然の引退宣言をしました。プロ野球が開幕してまだ1カ月も経たないうちに、新庄選手の余りにも気の早い引退宣言でした。

注1:出典「新明解四字熟語辞典」三省堂。本辞典では「出処進退」と表現。

注2:伊藤肇(いとう・はじめ)。高名な陽明学者の故安岡正篤氏を正師(正しい師)と仰いで、月1回約1年半かけて中国の正史18の史書を省略した『十八史略』の講義を財界幹部10人と一緒に受け、その講義のエキスを取りまとめたのが著書『帝王学の源流~十八史略を読む~』竹井出版。本稿の「出所進退」は伊藤氏の表現に拠った。

《サラり-マンの短歌》 辞めようとも思ったことは幾度かあった。が
サラリ-の語源を塩と知りしより幾程かすがしく過ぎし日日はや 島田修二 
※故島田修二氏は20代から宮柊二氏に師事し、歌人の傍ら新聞社で整理部、新聞記者、デスクなどを歴任して定年前に退社。その後は歌人として活動。

【サラリ-の語源】給料、月給。ラテン語salarium「塩を買うための金」から。sar「塩」に基づく。それが「塩の代金としてロ-マ軍人の給料の意味になり、さらに、一般の「給料」の意味になった。(出典:堀井令以知編『外来語語源辞典』東京堂出版)




  

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2005年11月14日 (月)

■【名言・名句】「現代経営学の父」ドラッカ-の名言

◆「事業の目的についての正しい定義はただ一つしかない。それは顧客の創造である」(P・F・ドラッカ-)
 変革する世界に対応する戦略を持つ必要性を説いたアメリカの経営学者ピ-タ-・ドラッカ-氏が11月11日、自宅で老衰のため死去しました。享年95でした。年配の方は、ドラッカ-氏が代表的著作『断絶の時代』で社会の根源的な変化を警告するとともにグロ-バル化や知識社会の到来を指摘し、世界的ベストセラ-となったことはご存じでしょう。
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「顧客の創造」とは、ニ-ズ(需要、お客が望むもの)の創造を意味します。新しいニ-ズを次々に堀り起こし、それに対応していくことを目的とするとき、事業は健全な発展をするものです。ドラッカ-氏の逝去を契機に、改めて著書を読もうと思われる方は、久保啓一著『図で読み解くドラッカ-理論』(かんき出版、1500円+税)をまずお読みになるようお薦めします。

 宮城大学教授の久保氏が図解コミュニケ-ションの技術を駆使して、巨大な知の森を体系的に理解できるように本書で案内されます。この本を読んだ後から『断絶の時代』、『マネジメント』、『見えざる革命』、『未来への決断』等の著書を読まれたら、ドラッカ-氏の言いたいことがこれまでよりもよく理解できると思います。

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なお、NPO法人等の非営利組織の経営に関わっておられる方には、ドラッカ-氏の『非営利組織の経営~原理と実践~』(ダイヤモンド社)の読破をお薦めします。日本語版の序文には「いまも機能している最古の非営利機関は、日本にある。奈良の古寺がそれである。(中略)しかし、なおかつ、非営利機関は、多くの点で優れてアメリカ的な現象である」と書き出しがあり、内容はⅠ部使命が第一、Ⅱ部使命から成果へ、Ⅲ部成果をあげるためのマネジメント、Ⅳ部人事と人間関係、Ⅴ部自己開発の5章です。
今では非営利組織に関する書物としては古典ですが、私は今から10年前に通読しました。近年、NPO法人の経営コンサルに関わっています。

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